『兎とよばれた女』part6/未完成な自伝【えるぶの語り場】
シュ:今回は最後まで読んできてもらったわけだけど、恒例の感想タイムからいきましょうか。
ソフィーは前回までは「存在の不安定さ」という部分に着目していたかと思うのだけど、そのあたりも含めてどうでしたか?
ソ:根底にある不安というものは感じ取ったわけだけど、今までほどそれについては考えなかったかな。
彼女は自分が何者であるのか?ということに非常に敏感ではあると思うけれども、かぐや姫の章で「自分が女性である」という主張をしていたので、思っていたより自己規定というものはしていたのかなと。
なので、今回読んでいて存在や自己規定については考えていなかった。
シュ:逆にどこに注目して読んだの?
ソ:ひとつは言葉の問題。もうひとつはシュベールが言っていたことだけど「本書は矢川自身の自死を暗示しているもの」という点かな。
というのも今回これを読んでいて俺はすごく不吉なものを感じたんだよ。
物語が行き詰ったから急にスミの国を大噴火させて強制的に物語を終わらせてしまうわけですよ。
その部分を現実に置き換えると、強制的に人生を終わらせる=自死を彷彿させるんだよ。
でもこれは小説だからできることで、現実世界だとなかなか難しい決断じゃないですか。
俺はこの部分を読んでていて三島のインタビューを思い出したんだよ。
「太宰治の小説を読んで自死を選んだ人が大勢いるとか、太宰自身が自死をしたことについてどう思うか?」という内容なんだよね。
そのインタビューに対して、三島はゲーテの『若きウェルテル』の話を出すんだよ。
ゲーテというのは、自分自身が失恋をした際に『若きウェルテル』を執筆して小説の中で自分を殺したわけだよ。
でもその代わりに現実ではゲーテは生き返ることができたと三島は述べている。
俺もそうだと思うんだよね。
そりゃ、死ぬ死なないは本人の問題なのだけど、作家という人種は作品の中で自分を殺して現実を生きることができる生き物だと思う。
別に作家に限らずとも、日記を書いて自身のトラウマを克服していく精神科の療法がある通り人間はみんなそうなのかもしれない。
ゲーテはそれを日記ではなくて小説という形で表現しただけだよね。
でも矢川澄子は現実と物語の境界がない人間だったから、
普通の人間が生き返ることができることをしても、
彼女は自分を殺してしまうと言葉と心中しなければいけない。
自死という結末を迎えてしまったのは非常に残念だけど、矢川が真剣に言葉に向き合っていたことの現れでもあると思った。
シュ:この小説の最終章「兎とよばれた女」だけれど、僕はこの小説で一番すきな章なんだよね。
この部分も矢川自身の自伝的かつ、彼女自身の願いが込められている箇所なんだよ。
内容としては、スミの国の崩壊で死んだはずの兎が再登場して「透明になりたい」とか言い出したり、突然出てきた男女の動向を見つめていたりするというものだよね。
その章の中で兎が「透明になりたい」と願う場面があるわけだけど、そこを読んで僕は「かぐや姫のノート」に記述されていた天女たちの話を思い出した。
天女たちはその場に適した、自分自身の望む形に姿を変化させながら生きているのだけど、兎の「透明になる」という行為もそれと同じだと思うんだよね。
それはとても寂しい話なのだけど、透明になることがその場に適した姿であると自身が判断したということなんだけど。
ソ:儚いね。シュベールがその考えに至ったのは、おそらく突然出てきた男女が実在した誰かを指しているからだと思うのだけど、
それは誰を指しているの?男が澁澤であることは何となくわかるのだけど。
シュ:ソフィーの言う通り男は澁澤龍彦を指していると考えている。これは完全に想像なのだけど突然出てきた女は澁澤の後妻である澁澤龍子だと思っている。
澁澤龍子は元々、澁澤を担当している編集者でその縁で結婚をしたんだよね。
少し前に話したけど、澁澤自身は生活力が皆無な人間だった。
そんな彼を支えていたのが矢川だったんだよ、家事から文章の清書、翻訳の下訳まで一通り彼女がやっていたらしいよ。
それに代わる女性が出現したことは澁澤のことを愛していた矢川にとっては非常にショッキングな出来事であったとは思うけれど、一方で安心もしたと思うんだよね。
「自分が存在しなくても愛した人は生きていける」そう考えたんじゃないかな。
それで彼女は小説の中で自分の分身を透明にしてしまった。
ソフィーが先ほど言っていた通り、矢川が小説の中で自身を殺す=現実でも彼女が死ぬということで、実際にそうなってしまったのだけど。
この部分は多少格好つけているとは思うけど、矢川の感情を凝縮していると思ったね。
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