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異彩が照らすその先へ

初めまして、2022年6月に入社いたしました、小林恵(こばやしめぐみ)と申します。日本語でもめぐ、英語でもMegです。
1991年8月生まれ、今年で31歳になります。

ヘラルボニーとの出会いは2019年夏、渋谷スクランブルスクエアでのPop-up。たまたまジムの帰りにウィンドウショッピングをしていた際、目に飛び込んできたカラフルでおしゃれなエコバックに引き寄せられ、気づいたらPop-upに足を踏み入れました。エコバックをまじまじと見ていると、代表の崇弥さんがそっと近づいてきて、ヘラルボニーの生い立ちと目的を話してくれました。静かに淡々と、でも深い想いのこもった説明に、なんて美しい会社なんだろうと思ったこと、今でも鮮明に覚えています。

その時には、まさかその3年後に自分が入社しているとは想像するよしもないのですが、思いがけないタイミングとご縁の重なりで、今こうして入社エントリーを書かせていただいていることを思うと感慨もひとしおです。少々この場をお借りして、私のヘラルボニーへ辿り着くまでの旅路について、お話させてください。(ごめんなさい、長文です。)


元気な障害者

まずは私の人格形成に欠かせない人である、私の母についてお話しさせてください。母は生まれつき身体に障害があり、高校生の頃から今まで3度の大手術を含む4回の手術を経験しています。左足には人工骨があり、右足は左足より3センチ短いです。屋内で生活する時は、3センチの差を埋めるための装具をつけており、外出するときは靴屋で買った靴の片方を3センチ底上げしたものを履き、杖をついて歩いています。主治医からは、妊娠した場合はお腹で赤ちゃんを守りきれないだろうと、子供は生んではいけないと言われていたにもかかわらず、子供が欲しい!と私と弟の2人を生んでくれたなかなか破天荒な母です。

母に障害があるというと決まって「大変だね」とか声をかけられることがありますが、障害のある母だからといって、不自由な思いをさせられたという記憶はほとんどありません。確かに一緒に走ったり、自転車を漕いだり、体を動かすことを一緒にやることはできませんでしたが、いつだって母は自分の足代わりの車で至るところへ送り迎えをしてくれたし、できる限り経験を共有してくれました。本当は推奨されないジェットコースターも、私が絶叫ものが大好きなことを知っているので、ちょっと乗るくらいなら大丈夫だよとニヤリと笑って一緒に乗ってくれたりもします。子供のためなら、と一生懸命に動いてくれた母のおかげで楽しい思い出は多いと思います。

もちろん、体が思うように動かないこともあるため疲れやすいし、外を歩けば不自由に感じることもたくさんあると思います。それでも母は人一倍明るくて、人の十倍大変な思いをしてきたからこそ、その分繊細で優しくて温かい人です。そしてそんな母を慕ってくれる人をたくさん見てきました。母と仲の良い人は、母を見て「こうやって話していると小林さんに障害があるようになんて全然見えないよね、いつもこっちが励まされちゃって。」ということも。きっと一般的に、明るい元気な障害者というイメージがなかったのかもしれません。そんなこともあってか、母は昔から「ママは〜元気な障害者〜♪」とよく自分で歌っていました。これには娘も思わず笑ってしまうほど、本当に快活な母です。

お子様ランチで手がベットベトな私と母

社会の中で体感した障害に対するイメージ

街中で杖をついている母といるとギョッとした目で見られたりすることがありました。また、純粋な気持ちで「なんであの人足が3本なのー?」と聞く子供に「そんなこと言わないで!ジロジロ見ちゃダメ!」と叱る母親に出会ったり。そんなこともあれば、電車移動の時は長距離でも立ち続けないといけないことがあったり、大きな荷物を抱えながら階段しかない場所で周りに助けをえられず、途方にくれながら親子でえっちらほっちら階段を上ったり。

これは、その時助けてくれる人がいなかったことを嘆いたり、席を譲ってくれなかった人を責めたいわけではありません。周りにいた人が連日連夜の夜勤明けだったかもしれないし、ヘタに声をかけたら怖がられると思ったり、体調が悪かったという場合もあるから。

ただ、多くの場合、他の人にとっては障害のある人が異質に写り、時にはそこには存在しないものとしてしまいがちなことに、なんでだろうと疑問を持っていました。母は確かにここにいるのに。

仲良く並んで歩く両親
(いつか障害のある人が喜んで持てる杖など福祉グッズも作れたらいいな)

内なる障害 ー 無意識の諦め

子供のためならなんでもできる(本人談)「元気な障害者」の母も、自分のことになると急に弱気になることがありました。「仕方ないよ、ママがいると迷惑かけるから」「ママが行かない方が自由に動けるから、ここで待ってるから行っておいで」「ママの体がこんなだから、しょうがないね」と。

事実、母は世界中を飛び回る通訳者になりたかったのです。思春期の度重なる手術や治療に耐えながらも通訳者を育てる専門学校を卒業しましたが、やはり当時は特に身体的にも大変な側面がある通訳者は現実的ではないと、その夢を断念した過去があります。

また、母の体を心配して、悪意なく「そんなに動かない方がいいんじゃない?あとからしんどくなるよ?」と周りに言われて挑戦したいことを諦めたり、そもそも環境要因的に諦めないといけないことが多いことも影響していたのかと思います。

どんな理由であれ、やりたいという気持ちが本人の意思と関係なく阻まれてしまうと、なんとなくその前向きな心の芽がポキッと折られてしまう気持ちになるのです。それが度々重なると、知らず知らずのうちにいろんなことを諦めることを学習してしまうのではと思います。

この無力感や諦めは知らず知らずのうちに私の中にも育っていて、大なり小なり何かを決断をするときは、「ママが困るかもしれないから辞めておこう」「しんどいなら辞めておいたら?」などと「周りに迷惑をかけない」ことを最優先に判断しがちでした。

そのことをある尊敬する人生の先輩に話したところ、「それってお母さん自身のことを信じてないってこと。そうやって先回りして心配して勝手に判断するのは、時にはお母さんの尊厳や可能性を無視しているかもしれないのよ」と。

無意識に母の障害を勝手にわかった気になって諦めてしまっていたのか、できないこと・不便なことを当たり前に思うようになって我慢すればいいと思っていたのか、母のためにと思い込んでいたことは母の尊厳や一人の人間としての可能性を無視してしまっていたのか、と気づいた時はとてつもなく恥ずかしかったのと同時に、逆に気持ちが楽になったことを覚えています。

それから自分が何かを諦めようとした時は、「本当にそれでいいのかな、一度相談してみよう」と思い直し、母が何かを諦めようとした時は、「1回確認してみたら?何かできる方法があるかもよ?」と、言うようになりました。

驚くことに、その後母はいろんなことに挑戦するようになって、今では世の中がオンライン化してきたことを逆手にとり、個人事業主登録をして自分でリモートを中心に仕事をし始めたり、運動なんか絶対無理と全て諦めていたのにホットヨガに通い始めたり(できないポーズはあるけどねと言いつつ、今では2日に1回のペースで!)。この変化には、見ていた私も生き生きとしている母に嬉しく思い、大いに励まされました。

今まで自分が無理かも……と思っていたことは、結局自分の中で作り出していた内なる障害で、勝手に自らを縛ってしまっていたんだな、と。

もちろん心一つで魔法のように全てが一瞬で解決されるだなんて思っていません。でも、良かれと思っていたことで、無意識に自分の心の中に生まれた「偏見」や「無力感」に気づいたことは、母が抱える社会の中の不便さや、自分自身の人生との向き合い方に大きな変化をもたらしてくれました。できないことではなく、何ができるかにフォーカスをしよう、と。

確かに現実には、まだまだ生活のしづらさや生きづらさを感じて、諦めたくなるようなこと(障害)もたくさんある。でも、「障害」というもののイメージが変わったら、ただ障害のある人たちが生きやすい社会になるだけではなく、ハード面はもちろん、障害のある人やその家族の中にあるかもしれない無意識の諦めも一緒に溶かしていけるかもしれない。できないことよりもできること、得意なことにフォーカスする社会はきっと、障害の有無に関わらず、誰もが安心してのびのびと過ごせる場所だろうな、と信じています。

ヘラルボニーとの再会

ちょうど30歳の誕生日を迎える約1ヶ月前の2021年7月、転職を真剣に考える最中にフォローしていたヘラルボニー公式Instagramで見つけた一つのアート作品に強烈に惹きつけられました。30歳の記念に素敵な時計やジュエリーを購入していた方を知っていたので、私もできたらいいなと思いつつ、なかなかしっくりする物に出会えず、別に買わなくてもいいやと思っていた矢先でした。

作品は、希望の園所属の森啓輔さん「青春のバラード」。初見はInstagram上の写真ですが、ものすごい力で惹きつけられたのを覚えています。米国大学に在学中の4年間、異文化の狭間で自分のアイデンティティに悩んでいた頃に、美術の授業で自分というものの形を確かめるように無心で描いていた自分の作品を思い出したからかもしれません。

30歳までの過去の自分と30歳を迎えるこの瞬間の自分を、この絵をもって、これほど素敵な形で残せる方法は他にはないと直感したのです。

学生時代に描いた作品① 
「Being : あるがまま」
学生時代に描いた作品② 
「私の中のわたし」

すぐにヘラルボニーの問い合わせ窓口に連絡をし、本物を見ることができないか相談をしました。盛岡の本社ギャラリーで展示をおこなっており、後に東京にも巡回してくる予定であると回答がありました。しかし、万が一その間に別の方が購入を決めてしまったら……!すぐさまその週末に新幹線のチケットを購入し、日帰りで盛岡へ作品を見に行きました。

弾丸で訪れた本社ギャラリーでは、当時インターン生であり、現在ヘラルボニーの広報を努める玉木さんがいらっしゃり、森さんの製作のご様子や一つひとつの作品の特徴を丁寧に説明してくれました。鑑賞しながら、ここが素敵ですね、こんなところが魅力ですね、なんて話をしている中で玉木さんのお顔がますます晴れやかになるのを見ていて、本当に作家さんのことを尊敬し、誇らしく、かつ愛していらっしゃるのだなと感じました。その後も製作風景の動画を見せてくださったり、一つひとつの対応にとても感動したのを覚えています。

そんな玉木さんとの素敵な鑑賞体験と、本物の絵画のエネルギーに圧倒された私は、人生で一番大きなお買い物の決断をします。買いました、「青春のバラード」。今でもその場で決済した時のどきどきは鮮明に覚えています。カード一つで決済できてしまうことにすら不安を覚えて、とりあえず何かできることをしようと署名する契約書を隅々まで読みました。

清水の舞台からバンジージャンプするような気持ちで購入した作品ですが、今私の部屋に飾られている青春のバラードを毎朝毎晩と眺めるたび、なんとも言えないじんわりと温かくキラキラした気持ちが広がり、あの時の決断は決して間違っていなかったなと思います。
(作品を見ることしか頭になかったため、盛岡冷麺すら食べずに帰ってきたことが唯一の後悔です 笑)

リビングの「青春のバラード」
我が家の自慢です。

そんな一顧客としての購買経験を通して、ヘラルボニーという会社、そしてそこで働く人たちの真っ直ぐな気持ちに触れ、何とかこの会社に携わることはできないかと思うようになりました。

ヘラルボニーのメディアリリース、社員のnote、特集の動画など片っ端から見ていくなか、気持ちは高まるばかりでした。リファラルのみの採用活動ならヘラルボニー社員と知り合いの人、湧いて出てこないかな、なんて真剣に思っていました。

そんな矢先に訪れた、ステージ4の癌を長く患っていた大好きな祖母の衰弱。一旦は転職活動もヘラルボニーのリサーチもお休みをして、最後の介護に勤しみ、祖母を見送った告別式の夜。なんとヘラルボニーが一般採用を開始したとTwitterで発表しているのを見つけました。

これはもう運命だ!最後の最後まで私の仕事の行方を心配していた祖母がこっちだよと導いてくれたに違いない!と思い、勇気を出してすぐに応募をしました。その後、ありがたいご縁をいただき、今こうして入社エントリーのnoteを書くことに至っています。

大好きな祖母と
生前最後の女三代による海外旅行 inフランス
(ばあちゃん、見てるかな。めぐは楽しくやってるよ。)

そして、今ここ、ヘラルボニーにて。

入社して1ヶ月が経ちましたが、新しいお取引先様とのお打ち合わせのたび、ヘラルボニーの想いが支持され、確実に共感を呼んでいる実感があります。こんなに希望に満ちた商談があったのかと、毎回ヘラルボニーの会社説明やお取引先様がヘラルボニーとコラボしたいと思ったきっかけを伺うたびに感動します。商談中に思わず涙ぐんでしまうこともあるくらいに。

そして、何よりもこのヘラルボニーに集まっている仲間たちが本当に尊い。
「それ素敵だね」
「〇〇さんはそういうところがすごい/素敵だよね」
「本当にいつもありがとうございます」
社内Slackのやりとりも、ちょっとした声かけひとつとっても、お互いがお互いを尊敬しあっている気持ちが染み渡っている。会話に関係ない横で見ている私まで嬉しくなっちゃうような、そんなコミュニケーションが至る所にあります。この人たちとなら、異彩を届ける旅路をどこまでも進んでいける気がする。

直接的または間接的に、社会の中での障害のある人へのイメージが変わり、ハードもソフトも障害のある人でも過ごしやすい社会になり、結果障害のある人自身やその家族も何も諦めなくて良くなる社会を見たい。いつか世界中にこの不思議な言葉、「ヘラルボニー」が広がり届いた時には、きっと誰もがあるがまま、「障害」とかなんだとかいう枠を超えて、その唯一無二の個性(ちがい)を愛しながら生き生きと過ごしていける社会になっていることを信じて、異彩作家たちと共に思想を届けていきたいと思います。

さあ、届けよう、この誇らしい異彩の数々をどこまでも。
みんなで行こう、この異彩が照らす一歩先の世界へ。

ヘラルボニー 小林恵 ( Twitter / Instagram )


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