多様性の教科書「HIP HOP」に耳ヲ貸スベキ。
世界一多様性を体現する文化が、ヒップホップ。
2024年3月10日(日)22:00〜22:30「my name is(ABEMA)」のヒップホップドキュメンタリーに双子出演しました。
誤解を恐れずに伝えると、ヘラルボニーには「“名も無き”思いや作品を、自分たちが後押ししていく」ヒップホップ魂が力強く根付いている。
ジャパニーズヒップホップであえて例えるならば「KREVA」のような存在に成長したい。KREVAは、超実力派が集うアンダーグラウンドなフリースタイルバトルの大会「B-BOY PARK」で1999年、2000年、2001年、前人未到の3連覇を成し遂げている。
その後、メジャーシーンを圧倒的スピードで駆け上がり、マスの世界で誰もが知るラッパーに君臨した。ヘラルボニーも同様に、マスに向けたアプローチと共に、現代アートの文脈も意識をする。マスだけやっていると確実に私たちのビジネスは飽和していく、だから両輪を回さなくてはいけない。
「8:2」のバランスで攻める。
私たち双子にとってヒップホップが育んだ音楽と文化は、単なるエンターテインメント以上のものだ。ヒップホップの根底に流れるのは、抑圧や困難や逆境に打ち勝つ力強い精神だから。
点や円を描き続ける行為を、何分続けられるかみなさんも考えて欲しい。
私であれば1分2分で飽きてしまうような行為を、2時間でも3時間でも、本人が続けたいと思って続けていく作家が存在している。見る人によっては意味のない行為かもしれない。だが、捉え方によっては才能になり、むしろ新たな価値になる。彼らの作品を、非営利ではなく、株式として、新たな形で社会に提示していくことが概念を変えていくことにつながっていく。
それは、1970年代初頭、アメリカ黒人にとって公民権運動や差別撤廃運動を背景にした黒人文化の主張の時代に、ニューヨークのサウス・ブロンクス地区で産声を上げた「ヒップホップ」のように。
世界一多様性を体現している文化だ。人生の哲学となりうる芸術形態、ヘラルボニーとヒップホップの関係性について、筆をとりたい。
人生の「BGM」が「HIPHOP」だった。
「1,500人が受験して、15人が◯◯高校に落ちたって、そのうち2人はあなたたちだよ、私立の滑り止めを落ちたんだよ?恥ずかしくないの?」
17年前、岩手の冬。教室で語りかけてくれる担任の先生の声はやけに乾いて耳に残る。そんな日も、仲間と共に爆音でヒップホップを流しながら「落ちたわ」「俺も」「お前もかよ」と武勇伝のように笑いながら帰宅した。
書籍「異彩を、放て」でも告白しているが、中学時代は人間的に破滅していた。深くは割愛するが、髪を染めて、ピアスを開けて、他校の友人たちと過ごすために、学校にあまり登校することもない、顔馴染みの警察官もいた。
大人から抑圧され続ける日々。人生BGMのように、自然とヒップホップばかりが流れている生活だった。そこから圧倒的に夢中になっていったのは、今思うと中学時代まで抱えてきた思いを鮮やかに言語化するラッパーやカウンターカルチャー(名も無きものや思いに強さが生まれる世界)に対する憧れだったのではないかと思う。
破滅する前に圧倒的に挑戦していた卓球を武器に(岩手県の団体戦で優勝するくらいには強かった)定員割れする実家から200km離れた高校になんとか合格し、高校生活が幕を開けた。
「mixi」の「Graffiti掲示板」が先生、辺境の地からインターネットでヒップホップ探求
ヒップホップと卓球に捧げた高校時代が幕を開けた。
インターハイを目指して朝から晩まで小さい白球を追いながら、徹底的にヒップホップカルチャーをディグった。
そんなとき、小さい頃から絵を描くことが大好きであった自分(崇弥)にとっては自然なことなのだが、ヒップホップ三大要素の一つでもある「グラフィティ」いわゆる「スプレーアート」に夢中になった。
自宅のスケッチブックや、高校の文化祭の看板に飽き足らず、夜中になるとヘルメットライトを装着し、スプレーセットを持ちながら、緊張しながらも双子で街に繰り出した、文登は見張り役、私はプレイヤーだった。
しかし、渋谷・シスコ坂(グラフィティーアートの聖地)に憧れてはいるが、アトリエは岩手である。誰に怒られることもないが、誰に作品を見られることもなかった。グラフィティの描き方を教えてくれる師匠も誰もいないので、作品が完成する度に「mixi」の掲示板に投下していた。
「うまくなりましたね」「どこの壁ですか?」「Dope Cool!」
インターネットには無数のアドバイザーがいた。坊主頭の卓球小僧には、世界中から反応が返ってくるインターネットの世界は刺激的だった。一度、ロサンゼルスのグラフィティアート団体”CBS”に所属する「KAZZROCK」から返信があったときには、震えるほどに興奮していた(笑)
当時、SHAKKAZOMBIE(シャカゾンビ)をよく聴いていて、SWAGGER(スワッガー)や、PHENOMENON(フェノメノン)(SHAKKAZOMBIEのメンバーであるBig-Oことオオスミタケシさんが立ち上げたファッションブランド)の服や、カニエ・ウエストがMVでかけていた、シャッターシェイドというデザインのサングラスに憧れて、着用していた。さすがに、地元・岩手ではかなり浮いていたことが懐かしい(笑)
岩手から世界へ「壮大な物語作りたい」
「岩手県に、法人登記した方が、かっこいいよね」
2018年、文登は岩手、私は東京に住んでいる。どちらに本社を置いたほうが格好いいだろうかと考えた時、岩手から自分たちの理想を実現するという姿を見せたほうが、格好いいだろうなと確認することが出来た。
それは、ヒップホップが黒人文化からメジャーシーンにのし上がったことと同義。私たちも岩手から世界に進出する、いつかニューヨーク近代美術館(MOMA)でヘラルボニー展ができたらと、本気で夢見ている。
1店目の店舗もギャラリーもホテルも、あえて最初の一歩を全て岩手に集約させた。この意思決定が意味していることは何か、短期的には六本木にギャラリー出したほうが売り上げも上がるでしょう。ですが、私たちは数十年後に大型美術館で展覧会を実施した時の「年表」を見据えているのです。
「見てみて!ヘラルボニーって世界中で有名だけど、マジで岩手からスタートしてんじゃん!スゲーな!」
数十年後の鑑賞者の驚きを、現在から意識している。岩手からスタートして、世界を変えていったという壮大な物語を現実化していくために。
今現在、岩手ではヘラルボニーの電車やバスが走り、知事もヘラルボニーのネクタイを愛用する。岩手県で知名度調査をすると米国発祥の有名アウトドアブランドより高い数字が出て驚く、ある種の熱狂が生まれ始めている。
それは、地元をちゃんとレップ(represent)していくことに近いような、地方出身ラッパーが、自分のアイデンティティはどこにあって、なぜそこを大切にしているかを言語化するように、始めた時のスタンスを忘れたくないという気持ちもある。
「良いコト」の前に「良いモノ」でないと世界を動かすことはできない
最後に「呂布カルマ(ラッパー)」さんから賞を授賞したことを伝えたい。
「ヘラルボニーは、障害のある作家の作品を商品にしましたよって美談に終わっていない」と。青春時代から続くピップホップヘッズとして、一生忘れることのできないコメントに流石に泣けた。
「ダイバーシティ」「インクルージョン」「SDGs」といった波に乗せてもらってここまで5年間、走り続けて来た。ただ、大切なのは作家さんの作品がデザインとして格好いい、素敵だという直感的な感覚だ。あまり理念的な意味が付加されすぎてしまうと、天井や足かせになってしまう。
最近確信していることは「障害者活躍」「福祉」「社会起業家」「ソーシャルデザイン」抗うことのできない美しすぎる思想は、ヘラルボニーをもちろん前進もさせるが、後退もさせることもあるのだということ。
ヒップホップは、世界最強の「多様性のお手本」だと思う。
太っていることを馬鹿にされることも、片親であることも、犯罪歴があることも、地方の田舎出身であることも、黒人であることも、アジア人であることも、逆にマイクの武器に変貌している。つまりは会社で例えるならば経営資源に近い、それを「美談で終わらせず」に「価値のあるもの」に変換している。
「良いコト」の前に「良いモノ」でないと世界は変えることはできない。
その事実を1970年代に経済崩壊後のブロンクスで誕生し、今では数十億ドル規模の産業になったヒップホップは示してくれている。
さてさて、2024年3月10日(日)22:00〜「my name is(ABEMA)」のヒップホップドキュメンタリー、YouTube に短縮版(30分→7分)がアップされましたのでご覧ください。
ヘラルボニーはこれからも“名も無き”思いや作品を、自分たちが後押ししていきます。
最後に・・・マイベストジャパニーズヒップホップリストを、年代別に記載します、Big up!!!!!!!!
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