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「異彩を、放て」という言葉に魅了されてから1年が経ちました。

はじめまして!
2021年の4月に新卒として入社した小森 芽依(こもり めい)と申します。

表題の通り、入社して1年。
インターンの期間を含めると約1年半が経ちました。

ありがたいことに急成長するヘラルボニーと共に目まぐるしい時間を過ごしていくうちにあっという間に時間が経ったという感じです。

今回は入社して1年という内容のnoteですが、これまで一度もヘラルボニーのnoteに登場したことがなかったため、自己紹介も含め、どんな想いでこの会社にいるのか、どういった経緯で入社したのか、そして1年経った今の自分についてお話ししたいと思います。

自分のこと

少しだけ自分の話を。
生まれも育ちも盛岡で仙台の大学に進学した4年間を除くと全ての時間を盛岡で過ごしました。

岩手山をバックに高松の池での1枚

今好きなことやものは、映画を見ること、本を読むこと、飼っている犬を愛でること、(特別な知識はないですが)服、いちご。
アクティブではないので、ずっと家にこもって生活しても大丈夫なタイプ。

母親譲りの真面目な性格と父親譲りの曲がったことは許さない正義的な側面も持ちつつ、結構な人見知りをする内気な性格。

そのため、正義的な側面はほとんど日の目を見ることはなかったかもしれません。曲がったことは許せないけど口に出して注意する勇気まではなく、それならば自分は正しく生きようと真面目に成長してきたと思います。

1人遊びや家で遊ぶことが大好きで幼少期、家の窓から見える公園を見張って人がいなくなった隙に遊びに行くぐらいの徹底ぶり。
今でも人がたくさんいるところは得意ではないです。もういい大人なのでちゃんと行く時は行きますが。

ただ静かな場所が好きかと言われればそうでもなく、美術館巡りといった趣味はありません。そのため特段アート作品に興味があったかと言われればその逆で。
また、私の人生の中で福祉や障害というものが身近であったかというとほとんど無し。家族、親戚も含めて障害がある人との関わりがないまま過ごしてきました。

そんな私がなぜヘラルボニーにいるのか?

祖母と、映画と、大学生活。

今、ヘラルボニーにいる自分を形作ったものはなんだろう、と考えた時に思い返すと3つの分岐点がありました。

まず1番最初は祖母について。

私が小学生〜中学生だった頃、帰宅先は祖父母の家でした。
共働きの両親に代わって家が近い祖父母が迎えに来てくれたり、毎日夕ご飯を作ってもらったり、、お世話になったエピソードは上げるとキリがないです。

習い事で忙しくしてはいましたが、放課後に遊ぶことも多く、友達の家で遊んだり私の祖父母の家に友達を招くこともありました。

ある日、いつものように遊んでいた時、祖母がひどく咳こんだことがありました。彼女は喘息もちでした。
私にとってはいつもの光景。祖母が咳をしてしまうことは仕方ないことだと理解していました。

しかし、後日友達に言われた衝撃の一言。

芽依ちゃんのおばあちゃんの咳、汚いね。

自分では思ったことがない言葉すぎて、心の中は、はてなマーク。
何を言われたか瞬時に理解できませんでした。

時間が経つにつれてようやく腹が立ってきて、祖母が辛そうに咳をすることがいつも心配で不安なのに、1ミリも心配する気配がない言葉に私ですら傷つきました。
しかし直接言い返せなくて、帰ってから祖母にはもちろん言えなくて、ひどく悲しい気持ちを抱えたまま我慢できなくなり母親の前で大泣きしたことを今でも覚えています。

今思えばその友達は私の祖母が喘息持ちであることを知らなかったのでしょう。

しかし、知らないがゆえに発した言葉はそこに何ひとつ悪意がなくとも、ひどく人を傷つけることがあるのだと無意識的に体感した瞬間だったと思います。


時は経って高校生。

父の影響で映画を見ることが好きだった私は、休日にテレビの映画チャンネルをつけっぱなしにしているところ、1本の映画に出会いました。

「誰も知らない」

ネグレクトを題材にした作品で当事者の子供たちの目線で描かれていく生々しい内容。

かわいそう、酷い話だ。そう思うより強く

私って何も知らないな

映画はいつだって新しい価値観や視点を与えてくれる存在ですが、あまりにも呆然としてしまったことは初めてでした。

作品が伝えたいことからずれているかもしれないけれど
ネグレクトについて何も知らなかった私に世の中を知るべきだと訴えてくるようで。

私がどれだけ無知であるかという現実を突きつけられた気分でした。

無知であることは怖いこと。
自分が無知であると知らないことはさらに怖いこと。

自分が知っていることはいつだってほんの一部であり、自分自身が発した言葉で誰かが傷つく可能性があることを考えるようになりました。


高校卒業後、自己紹介でも述べたように仙台の大学へ入学しました。

春になるとキャンパス内で花見ができる素敵な大学

大学時代はゼミや担当教授に恵まれたため、「言葉で人が傷つくことがある」という問題意識を見失うことはなく、より突き詰めて考えられる環境でした。

また一人暮らしだったため外出がより億劫になり(?)、大学生活の後半はコロナ禍による自粛生活も相まって家で過ごす時間が多くなりました。その結果、映画を見る時間やSNSにふれる時間が増え、良いのか悪いのか問題意識がより膨大なものになっていきました。

ジェンダー、人種差別、誹謗中傷などに目を向けるようになり、なんとなく
誰もが生きやすい世の中」「人が無作為に傷つけられない世の中」
になるために必要なことを考えるようになります。

そんな時間を過ごすうちに卒論の時期がやってきました。

このあまりにも広がりすぎた問題意識を消化する時がいよいよ来た!

そう意気込んでみたはいいもののいざ面と向かって見ると教授からはダメ出しの連続。

何を書きたいの?その問題意識をどんな課題に繋げるの?

担当教授の研究分野は「経営学」「社会学」だけれどそこに関連して書きたいことが全くない。(失礼)
ただそこにとらわれず自由に書いていいと言われていたが、原点であるネグレクトをテーマにしても書きたいことが書けないとなり、飛躍して死生観について書こうとしたら「テーマが大きすぎるね」とまたダメ出し……。

そうして試行錯誤をともにした大学時代のパソコンに電源をいれ、卒論フォルダを探すと「問題意識」というそのまんまのタイトルがついた文章が見つかりました。読み返してみるとヘラルボニーに入るに至る理由につながる文章だと感じたのでここで共有させてください。

言葉によるカテゴライズに苦しむ人はどれだけいるのだろう。
例えば、身近でいうと「女」

別に「女」で分けられるのはいいけれど、そこに
「女の子なのに可愛いもの着ないんだね」とか
「女の子なんだから結婚は絶対しなきゃ」とか
ジェンダーが多様な時代になってきたものの、まだまだそこらへんの考えは根強い。と思う。

言葉のカテゴライズから生まれる偏見のようなもの。
個として見るべき場面でグループの中の一人として見られているような窮屈さ。
私はまだ窮屈だなあ、ぐらいなのんびり加減だけれど、死にたくなるほど辛いと感じている人も少なくないはずだ。

言葉の歴史は、長く、深い。
人を個として見てほしい時に必要なことはなんだろう。
何を「知る」ことができれば、私を「私」として見てくれるのだろう。
カテゴライズという窮屈な箱の中で生きづらさを感じている人たちを救える手段はなんだろう。

きっと当事者たちを助けるものではなくてその周り、「私たち」に対するアクションを起こさない限り救えないのかもしれない。

そこに繋がるかはわからないけれど自分がどれだけ無知であるかを知ることは必要だと思う。

無知を知ると物事や人に対して視野が広がる。
視野が広がると自分のアクションに選択肢が生まれる。
その選択肢が多ければ多いほど、やっていいこととやってはいけないことの区別をより早く正確に判断できるようになると感じる。

その選択肢を多く持てる人が増えていけば「誰もが生きやすい世の中」に繋がるのだろうか。
選択肢を多く持てるよう伝えていかなければいけないことはなんだろう。
より広く、より多くの人に伝えていく方法は何があるだろう。

行き場のない問題意識そしてHERALBONYと出会う

卒論で息詰まりとうとう息抜きとして外出した私は、仙台のパルコでPOP UPを行うHERALBONYに出会いました。

当時の店舗写真

それが初めて「異彩たち」を目にした瞬間でした。

人が行き交う通路。
細長く置かれた什器の上にはカラフルなネクタイやハンカチ。

なんだこれ!とにかく可愛い!!

服や雑貨用品などを見て回ることが好きだった私にとって、他で見たことがないデザイン性に言葉どおり心が踊っていたと思います。手に取るもの全てが可愛くてワクワクしました。基本的に色を基準に選んできた人間にとって、まず何を基準に買うものを決めようと、店先で長考してしまった事を今でも覚えています。

悩んでいるとヘラルボニーの社員だという男性が話しかけてくれました。
(ここ貴重な泉さんの登場シーンです)

どのようなアート作品なのか
書いている作家さんはどんな人なのか
製品のクオリティの高さと、そのクオリティを求める理由

店先で商品のことを隅から隅まで聞いていくうちに愛着が湧いてきて、最終的に作品の背景に惹かれたものを購入しました。自分が身につけるものでこんな選び方は初めてでした。

当時、持ち帰れるパンフレットがなく、忘れないように帰りの電車の頭の中は会社名がぐるぐる、ぐるぐる。

「ヘラルボニー、ヘラルボニー」

帰宅後すぐに復唱しながら検索をかけると一番上に出てきて、会社紹介ページに飛んで隅から隅まで読み耽ること15分弱。

この会社に入りたい!

すぐに決意しました。

商品を実際に見た流れで、ヘラルボニーがやっていること、大事にしていることを知り、
もう全てが良かったのですが、最初に出てくる

「異彩を、放て」

このミッションに共感しかなく、読んで5秒で心掴まれてしまいました。

当時、就職活動中だったのですが、大層な問題意識を抱えているがゆえに選ぶ会社全てに疑問を持っていました。

やりたいことではあるけれど果たしてこの気持ちを消化できるのだろうか
どんな仕事につけば自分がもつ問題意識を消さずに実行できるのだろうか

自分の中でしっかりと形になってきた問題意識を無視する形で働きたくはなかったのだと思います。

そんな中でヘラルボニーに出会い、「異彩」に出会いました。

自分が体験したから言えることですが、商品を見て作品を知った時に新しい価値観を与えてくれたように感じました。

そうしてもし障害がある人と対峙した時、「異彩」というフィルターがあるだけで
考えが変わって、接し方が変わって、話しかける言葉が変わって……。
回り回って「障害」という言葉によって苦しい想いをしてきた人たちが救われる社会になるのではないだろうか?

色々考えたけれどとにかく自分が問題意識として考えていたことをこの会社なら解決できる可能性を秘めているのではないか、そう思いました。

そこからはすぐに行動開始。

会社サイトにリクルート情報がなければワードで検索をかけ直して、
今年の募集要項がなければ去年の募集を探して、
見つけたメールアドレスに連絡しようと勢いのままに文章を書きました。

しかし私は福祉のこともアートのことも、ほとんどというより全く知識がない無力な大学生。
ヘラルボニーから見た私の価値とは?と、途中戦意喪失しながら、なんとかメールを送信しました。

後日、ちょうど今年の募集をかける頃にフライングで送ってしまったことがわかり、インターンのお話をいただいて大学4年の秋頃ヘラルボニーのメンバーとして活動を開始しました。

「異彩」がもたらす新たな視点

===
異彩を、放て。

知的障害。その、ひとくくりの言葉の中にも、
無数の個性がある。
豊かな感性、繊細な手先、大胆な発想、
研ぎ澄まされた集中力・・・

“普通”じゃない、ということ。
それは同時に、可能性だと思う。

僕らは、この世界を隔てる、
先入観や常識という名のボーダーを超える。
そして、さまざまな「異彩」を、
さまざまな形で社会に送り届け、
福祉を起点に新たな文化をつくりだしていく。
===

何度見ても素敵な言葉で、何度見ても私が言いたいことが詰まっているなあと思ってしまうミッション。

インターン時代から現在進行形で、そんな素敵なミッションを掲げた会社の一員として歩んでいることを誇らしく思いながら活動してきました。

そして、岩手のギャラリーやショップでお客様に直接お話しできる機会が多いなか、
作家の才能を広げていくことと同時にその才能を受け取った側の世界を広げることができる。
それがヘラルボニーであると、1年、自分の身を通して実感しました。

これからも、もっと多くの人が

ヘラルボニーに触れて、作品に触れて、作家に触れて、違いに触れて

視点が、世界が、広がってくれれば良いなと思います。

日々の業務に追われて初心を忘れてしまうのではなく、
「異彩」という新しい価値観をより多くの人に届けられるよう気を引き締めて。

可能性を信じて。

異彩を、放て。

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皆様どうぞ2年目もよろしくお願いいたします!!

小森  芽依

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