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誤読とチャットGPT

 もう20年近くにもなりますが、専門の先生を囲んでアリストテレスのテキスト翻訳の講読に取り組む「アリストテレスと現代研究会」という勉強会に参加しています。ぼくは編集者で哲学の専門ではないのですが、集まったメンバーの中では一番の若年者であったこともあり、初めは単なる連絡係、いまのところ事務局という立場でお手伝いしています。
 コロナ禍以前は年に2回の合宿を行い、テキスト購読のほか、時には夜を徹して実に多彩な議論を行ってきました。現在は2ヶ月に1回ペースでZoomを利用して講義・議論を続けています。
 研究会の成果とは別に、ここではこぼれ話というか、議論のテーマを私なりに“積極的誤読”した、とりとめもない話を記録しておきたいと思います。


『霊魂論』とはいかなる書物か

 『霊魂論』とは、アリストテレスの「著作」です。(なぜカッコに入れたのかというと、彼自身が書いたギリシア語のテキストが残っているわけではなく、弟子たちが聞いて残したノートあるだけで、その真偽を検証しなければならないという事情があるからです)
 アリストテレスというのはじつに不思議な人で、哲学者でありながら生物学者でもあり政治学者でもあり論理学者でもあります。現代ではとても捉えきれないほどのスケールで物事の本質を突き詰めた人であって、「万学の祖」という代名詞も頷ける話です。
 さて、『霊魂論』。近代人にとっては霊魂の働きは精神分析や心理学の分野だと捉える人も多いでしょうし、宗教学や民俗学との関連から「霊魂」の存在を捉える人もいるでしょう。もちろんアリストテレスの『霊魂論』は現代心理学や宗教学、政治学などに多大な影響を与えてきたものですが、彼の霊魂イメージは物質的なものとも精神的なものとも言い切れない重層性(多層性)を有していると思われます。
 この物質的なものと精神的なものの対比は、哲学の歴史では果てしなく続けられてきた議論で、ここに突っ込むと話が果てしなく混乱してしまう(初学者のこうした混乱を好む人もいる)ので、ここでは「実在論」と「唯識論(唯心論」とだけに分類しておいて話を進めます。

チャットGPTは何を語るか

 さて、数回前の講義の雑談で、チャットGPTのことが話題になりました。
 いっときのDXのように、「チャットGPTを使わなければ乗り遅れる」という浮足立ったニュースがマスコミでも取り上げられていた時期でもあり、講義の雑談でも期待と好奇心、不安がないまぜになった話が多かったのですが、『霊魂論』を読む視点から議論すると、チャットGPTは霊魂の働きの中で、もっとも重要な言語(言、ことば、ロゴス)をAIが本当に生成できるのか、ということになりそうです。
 アリストテレスの「霊魂論」では、強引に整理すると霊魂の働きは、以下のように分類できます。

  1. 植物的(生命維持と、世代引き継ぐこと)【運動】

  2. 動物的(快適な状況を求め自ら動くこと)【感覚】

  3. 人間的(“ロゴス”の求めに従い高みを求める)【知性】

 近代哲学の祖であるカントは「人間にのみ知性がある」と考え、人間と植物・動物の間に超えられない壁があると考えました。人間の知性(理性)の卓越性を強調する考え方はアリストテレスの師であるプラトンにも見られますが、アリストテレスの霊魂論では、人間と動植物との異差をことさらに強調していません。むしろ知性と感覚はある時点では協働するとさえ言っているように思えます。
 その理由として、アリストテレスが生物学者といってよいほどの研究実践(いまでいうフィールドワークでしょうか)を行っていることが挙げられます。生物を見て知性と感覚が協働する、感覚(実感)を欠いた知性は成立しないと考えたとすれば、アリストテレスは生物や植物にもある種の「知性」が宿っていると直観していたといえるでしょう。
 チャットGPTの生成する「言語」は、膨大な既存テキストを収集分析して、質問に合わせて再構築したものですが、そのことは言い換えると以下のような「限定」が隠されています。

  1. 言語として「対象化」されたものしか扱えない。言い換えれば感覚を超えたものを捉えることができない。

  2. 質問には「どのような答えを期待しているか」が隠されている。同じ言葉で質問しても、質問者が異なれば答えも異なるはずだが、その差異を感覚できない。

  3. 言語の解釈は、受けての経験、状況、感覚によって引き起こされる「感情」「イメージ」によって代わり、同じ回答でも受け取り方は異なる。その差異を踏まえることができない。

 端的にいえば、「語られなかったことはなかったものとする」ということ。その態度が、どれほど多くの「声」を抑えつけてきたのか。ロゴスは言葉であると同時に、生身の人間は発する「声」であり、沈黙でさえ大きな意味を持つことは生活体験から実感できるはずです。
 つまり単に技術的に「過去のデータを再構築すれば自ずから演繹的にテキストは生成できる」という考え方が非常に限定的であり、チャットGPTが言語を獲得するためには、感覚や実感というものから多くの人が納得できる「高次(メタ)な認識の接地点」を持たねばならないということになります。
 『霊魂論』を正しく読解するには、この「メタ認識」を理解しなければならないと私は思いますが、その前段の議論の素材として、チャットGPTは多くの人に理解されやすいものではないかと私は考えています。

積極的な“誤読”支援ツールへ

 テキストを読むときに、誰しも「誤読」を避けたがります。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 誤読について、興味深い記事がありました。

(柴田元幸)一方、自らの被爆体験をもとに『夏の花』などを書き、『ガリバー旅行記』の抄訳も手掛けた原民喜は、フウイヌム国の馬に、原爆投下後に広島の街外れで見かけた馬の姿を重ねています。人間社会の犠牲になった馬ですね。こんなふうに、さまざまな思いを触発し、横滑りして、いろいろな読み方ができるのが古典の強みだと思います。

『暮しの手帖』25(2023夏号)p153

(斎藤真理子)ええ、自分でも意外でした。あそこ(『韓国文学の中心にあるもの』)で書いたことには、誤読かなと思うところもあるんですけど。
(柴田元幸)誤読だとしても、原民喜が『ガリバー旅行記』に見たものと同じで、創造的誤読ですよ。

『暮しの手帖』25(2023夏号)p160

ただ、誤読と誤解は、やはり質的な違いがあります。そのことを明確に示したのが次の文章です。

ここでひとつ強調しておきたいのは、批評をするときの解釈には正解はないが、間違いはある、ということです。よく、解釈なんて自由だから間違いなんかない、と思っている人がいますが、これは大間違いです。(略)いくら解釈が自由だと言っても、作品内で提示されている事柄の辻褄がおかしくならないように読まなければなりません。このへんは歴史学と似たところがあり、歴史学はさらに洗練された厳密なプロセスで間違った解釈を捨てるノウハウを持っています。これを理解しないで歴史学に取り組むと、詐欺まがいの学説に騙されたり、歴史修正的否認主義者になってしまうわけですね。歴史同様、文芸に向き合う時も否認主義者にならないよう、気をつけなければなりません。

『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』北村紗衣、書肆侃侃房、p13

 誤解はテキストを丹念に、そして批判的に読み込むことによって限りなく小さく少なくすることができるだろうけれど、解釈の多様性を尊重する、いわば“積極的誤読”というのは許されるのではないか、と私も考えます。
 言語生成AIであるチャットGPTの本当の可能性は、人間に成り代わって文書構造から「文章らしきもの」を生成することにあるとは思えません。むしろ逆に、「解釈の違いを最小限に食い止める」ための批評的読解を支援するツールとなることが必要ではないかと考えます。

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