ヘンタイは個性

「ヘンタイ」と「まとも」の境界線

私はヘンタイである。
そう言い切れる人は、多分、少ない。

自分のヘンタイ具合を自覚していたとしても、正々堂々とカミングアウトできる人は、大物だと思う。

実は、不惑を越してようやく、自分はヘンタイだと気が付いた。というか、ヘンタイではある自覚はあったが、横綱レベルで胸を張れるくらい変わり者だった。
一生懸命、マトモなふりをし続けて、化けの皮がはがれてきたこともある。

それ以上に、「結局、まともって何なのさ?」とやさぐれてしまいたくなるくらいに、皆さんそれぞれに、変態性を持っている。

「まともな大人」ってどういう人だろうか?
「ヘンタイな大人」ってどういう人だろうか?

四十にして、惑いは終わらず

論語で有名な「四十にして惑わず」

一体、今の日本で「四十にして惑わず」が息をするレベルで沁みついている大人は何人いるだろう?

不惑とは、40代を指す表現だけれども、私含め、40代になっても日々「惑う」ことは尽きない。

世界のどこかで起きた紛争により、冬の光熱費が上がったと言えば、惑い、
誰かがなんとなく発した言葉で、惑い、

今日、何をするか、誰と会うか、

朝、布団から出るか出ないかでも惑い、迷う。

惑うのは疲れるから、「答え」「見本」を欲しくなる
「マトモ」のふりをして、与えられたものを受け取るだけになる。

変態は個性

カタカナで「ヘンタイ」と書くと、性的なカテゴリーを意味するらしい。事実、英語では "hentai" というと、「日本のアダルト動画やアニメ、ゲーム」のことになる。カラオケのような逆輸入語だ。
性行為や性的なものを「えっち」と表現するのも、ヘンタイのHかららしい。

漢字の「変態」は、文字通り「状態、形態が変化変容する」という意味が元々ある。それが「変化→異常」という過程で、「通常とは異なる=変わっている」から「(性的に)変わっている」という別の意味を持つように進化したのだ。

でも、変態性は、性的コンテンツ以外にも、いたるところにある。

好きなことに熱中する。
これも、同じように熱中できる人には共感だが、できない人には「変」「頭おかしい」という感覚になる。

例えば、私の場合で言うと、活字中毒という変態性を持っている。

同じ活字中毒の症状をお持ちならご理解いただけるかと思うけれど、
本屋に行って、手ぶらで出るなんてことはあり得ない。
出先に本屋があれば、用が無くてもつい、立ち寄り、本を手にしてしまう。

けれども、活字が苦手な人からすれば、
「本屋に行くなんて、普通じゃない」
「活字なんかよく読めるよな」
という「自分には理解できない性質」だと思う

健康のためにランニングを始め、それが高じて、フルマラソン完走する。

ランニングしている人は、
「すごい!」「自分も挑戦したい!」と共感するし、

運動なんて大嫌い!という人は
「わざわざお金かけてマラソン大会とかありえん」
「走るなんて無理無理」と否定したりする。

アーティストも、ダンサーも、スポーツ選手も、料理人も
「自分の好き」をとことん追求できる変態性が花開いたものだ。

だから、変態は個性だ。

変態もヘンタイも紙一重

「好き」という情熱が高じる、という意味では
全てのヘンタイも変態も紙一重だと思う。

「ありなし」の話ではなく、
嗜好とはそういう「好きが高じた結果」だからだ

ただし、公に話せる変態性とそうでないものがある。

私は20年近く、ヘンタイと呼ばれる人たちをたくさん見てきた。

ただ、見てきた。

人間は、とても個性的だと、そのたびに実感した。

そんな記事をこれから、書き綴ってみようと思う。


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