Why Should I Die?/ジーザス・クライスト・スーパースター(1973)

見たのよ!

さあ、見ましたのよ映画「ジーザス・クライスト・スーパースター(1973)」。

サクッと筋を書いておくと、というかもう調べりゃ出ることをもう一度書いておきますと、「聖書を題材としたイエス・キリスト最後の7日間」を描いたロック・ミュージカル。とあります。
作曲、アンドリュー・ロイド・ウェバー、作詞、ティム・ライス。
「エビータ」でもタッグを組む2人ですね。
言わずと知れた名作ロックミュージカルでございます。
そんな名作を見た、今更やっと見た、何故かしらってそりゃイエス・キリストの自由研究にハマっているからだ。本当にこれ。

ジーザス・クライスト、イエス・キリスト、クリスチャンでなくとも(もれなく私もふっわふわの仏教徒よ)その名を知らない人は少ないでしょう。
貴方にもし洋画や洋楽を愛する趣味があれば、人生においてこの名前の登場回数は並より更に多いんじゃないでしょうか。
トム・クルーズなんか「トップガン」でもうめちゃくちゃ言うんだもんね、「ジーザス・クライスッ」ってね。私?グースが好きです。
古典美術からロックミュージックまで、果てはグログロぐっちゃぐちゃのスプラッターでもその存在が見え隠れどころか見えまくりなのです。
何?恐竜神父?いや呼んでないです。

そんな誰もが知っている「ジーザス・クライスト」っていったい何なんだ?

それをロック・ミュージカルという「イカニモ70年代」の空気の中でとびきりファンキーに、ヒップに、イキイキと描いたこの作品を見ましたよ、という話のためにこちらを設けてみました。
以下、ネタバレも含みますのでお気を付けくださいね。
あくまで個人の垂れ流しなので、どうか石はしまってください。後生です。

「あなたは場所と方法にこだわるが、理由は教えてくれなかった!」

結論から書くとこの作品の「神の子」ジーザス・クライストはとても人間的に思えました。
※みんな知っとるで、って話なのかも。
あえて前情報はできるだけ入れずに見てみたけども、多分こっからさきも皆知っとるでそれ、が続きます。

信者の熱狂ぶりは凄まじいけど、奇跡らしい奇跡の演出もない、一見してぶっ飛んでいる(だってあの時代に戦闘機飛んでんだぜ)ようだけど、見終わった今とても「地続き」な作品に思える。
音楽と衣装以外の飛び道具がこれといってないんですね。
ジーザスを演じたテッド・ニーリーの容姿の力もあると思います。
(なんか引っかかるなと思ってたけどそうだ「ヘアー」に出てた人じゃん )
正面から見ると少し虚ろにも見える顔立ちに決して大きくない身体、弟子たちに比べても貧相なんですよね。
「どうしてこの男が」と思わせるには最適な人選じゃないですか?
ここの絶妙な「神秘」と「ペテン」の間な感じ、「奇跡」からはなんだか遠い、だけども確かに「普通ではない」けどうまく言い表せない。

ユダの言うセリフたちを並べてみます。
「不思議な感じがしたんだ」
「あんたは普通の人間なのに」
「昔はみんなあんたを人として扱ってた」
「父親と同じナザレの大工になるべきだったんだ!」
まあそのユダ自身のそこそこ拗れた心情の吐露ではあるんですけど、それと同時に「見たままのジーザス」をひたすら表し続けているようなね、そんな気もします。
それにしてもこのユダ、とってもファンキーだ、ファンカデリックから来たのか。

この作品にはもう一人「人としてのジーザス」を熱く語る人間がいます。
そうマグダラのマリアです。
彼女はジーザス・クライストを愛していることに気づいてしまう。
香油塗ったくってやってたらハゥッと気づいてしまう、すっきゃねん。と。
こんな土壇場でですかい姉さん、いや土壇場だからか、そうだよな。
どうやって彼を愛したらいいのか、今までの男とは違う気がする、でもどうしたらいいのか。
いったい彼って何なのか。
どうもこのユダとマリアは、少し離れてみるとなんだか似たようなことを言ったり歌ったりしている気もします。
違いは有れど、すごく「人として」のジーザス・クライストに心を奪われている。
ここがすごく描き方として面白いなと思いましたね。
※「その高い香油を売れば沢山の貧しい人間に施せる」
とマリアに毒づくユダの態度ったらもう、キツい古参オタクです。
あたし彼がテニミュに出る前から応援してたんだから!とでも言わんばかりだ。

さて、そんな二人に激重・激熱の情を向けられている渦中のジーザス・クライスト氏ですわ。
(JCって略そうかと思ったけどどうにもこうにもジャッキー・チェンでしょうよ)

「誰も私の事を分かってくれない」
神の子も複雑です。
そこのところ人間だものな感じもしていいですね。

あるものは過剰に熱狂し、あるものはお前は変わったんだと言い、またある者は愛しているといい、奇跡だ、ユダヤの王だと言う。
救いを求める手は多すぎて施し切ることができない。
人として存在するには大きく広がりすぎてしまった自分の存在に誰よりも気付いているのは彼自身なのでしょう。
全ては「父なる神」の描いた運命。
序盤はこの神の子としての使命を背負った男の、どこか底の見えない苦悩のようなものが滲んでいて、ユダ、そしてマリアが語る「普通の人」「愛する人」としてのジーザスがリンクしきらないところがあるような気もします。
これがこの話の面白い所じゃないかと思います。

多くの人がご存じのとおりユダの裏切りによりジーザスは逮捕される。
かの有名な「最後の晩餐」へと話は転がっていくあたりの描き方が、「運命に抗えなかった男」としてのジーザス・クライストであるのが本作の魅力の一つではないかと(ユダもまたそうでしょうね)。

天上の父が描いた通りの運命がやって来てしまった。
この時のジーザスの「父」への大音量の恨み節、素晴らしいじゃあありませんか。
「死を克服するには死ぬしかない」
そう教えた男がいま、目前に見えた運命としての死について最後の抗議をしている。

運命なのは分かった、だけども、「なぜ?」「なぜ私なのか?」「どうして私が死ななければならないのか?」
この「Why Should I Die」の問いかけのシーンは非常に印象的でしたね。
「あなたは場所と方法にこだわるが、理由は教えてくれなかった」
「どうして!?」
「神の子」であるとともに「なんで俺なのよ」という思いも併せ持つジーザス、いい、とても人間だ。
それをアッサリと教えてくれるほど、やはり神は優しくないのだけれど。
というよりはだからこそ、彼は神の子であったという話なのかもしれません。

死は平等に訪れます。
時に慈悲、時に無慈悲・理不尽でもある死を受け入れ、克服するジーザスの姿というものが、あらゆる形の「死」におびえる民衆の救いになると思えば、まあなんだかそんな気もしたりする。
いや、あくまで個人的な感覚ですけどね。

そのジーザスの神の子としての在り方の対局で、愛した(マリアとはまた違う意味で)男の死を招いた自責に苦しみ、「これもあんたの計画のせいだ」と首を吊るユダというのは、まさしく神の欲したヒールといいますか。

そうまでして、なぜ?とまで考え続けると、これはもう終わりのない問答なのかもしれません、またにしましょう。

「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま踊らせるのだ」/ピート・タウンゼント

ピートはこう言いましたが、ロック・ミュージカルという土台と、この映画のジーザスの有りようを考えた時になんだか一瞬この言葉が浮かんだのでした。
悩める姿にこそ人は何かを見てしまうのかもしれません。


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