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「気まま哲学談話」で考えたこと、「忙しさ」について
先日、「気まま哲学談話」を行った。初めて主催した哲学カフェのイベントだ。約十名が集まり、「忙しさ」について話し合った。
終わった後に考えたことを、ここに書くことにする。
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そもそも「忙しさ」のテーマを選んだきっかけは「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)という本だった。
退屈というものを、約一万年前に起こった、人類の定住生活の始まりから考えている。その思考のスケールの大きさが魅力的だ。パスカルやラッセル、ハイデガーといった哲学者の退屈論を紹介しつつ、現代の消費社会に特有の退屈について分析する。それは「暇なき退屈」だという。
この「暇なき退屈」という考えが一見わかりにくいかもしれない。暇があるところに退屈があると考えるのが自然だ。社会がある程度豊かになると、暇ができる。その意味では僕たちはある程度暇を持っているといえる。しかし、その暇を暇として充分に享受できているだろうか、心の充実とともに過ごすことができているだろうか。
現代の社会では様々な娯楽が用意されている。暇な時間の過ごし方を与えられ、それを僕たちが消費するとき、そこには本来の意味での暇はない、というのがこの本に書いてあることだ。暇すら消費の対象となっている。だから僕たちが消費社会の中で感じる退屈は、「暇なき退屈」なのだ。
忙しさという言葉は、この本にはあまり登場しないが、「暇なき退屈」という観点から見たとき、忙しさもまた、退屈と結びつく。「忙しいが退屈している」という状態があり得る。
仕事をして娯楽をして、それなりに忙しく生きている。しかし心のどこかでは退屈している。満足とはほど遠い状態にある。そのような「忙しさの中の退屈」について考えたかった。
参加者の二十代男性が、日々感じている心の「ざわざわ」について語ってくれた。彼はそれを「忙しい」と表現した。心が忙しい。だから退屈になりたい、といった。彼にとって退屈という言葉は、むしろ心の平穏を意味するようだった。こういう風に、人によって言葉の意味が異なり、約十人という規模で意味の違いを擦り合わせながら話を進めることの難しさを感じたが、一方でそういう、その人なりの言葉を聞けることが嬉しかった。
彼の話を聞きながら、それだ、と思った。この「ざわざわ」について語りたかったのだと。
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