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ポケモンバス、内面、蛇の存在感 2022年11月13日週次投稿

週の半ばの記述のストレッチ、週次投稿です。
今回は日記の断片の貼り合わせです。



朝の散歩で切通しの坂に差し掛かるとき、自分の歩いてきた道の斜め向かいの道から坂の方に曲がっていく幼稚園バスの側面にポケモンのキャラクターが描いてあって、その表面に子どもが喜んでいる気分がオーバーラップしたような印象が浮かんで気持ちが動いた、というより胸がトクンと反応した。

これまで意識したことのない幼稚園バスではあるけど、何でこのタイミングでと思うのと同時に、イヤホンから聴こえていたくるりのばらの花の冒頭の歌詞を頭でなぞりはじめていた。
雨降りの朝で今日も会えないや なんとなく でも少しほっとして 飲み干したジンジャーエール 気がぬけて、なるほど曲で扱われていることとバスの表面に重ね描きされた印象とは似ているところはあるかもしれないけど、単に同時だったというだけで、似ているとか、片方の印象がもう一方に重ねられる。偶然を偶然というだけで片付けられないのはバカなのかもしれないが、そういうことを楽しめないなら散歩をどうやって続ければいい。

蜘蛛の巣のことをnoteに書いてから散歩で蜘蛛の巣を見つけることが多くなった。蜘蛛の巣を見つけると、それはまず平面として認識されている気がする。しばらく眺めていたり近づいてみると上端が電線で右の下あたりは木の枝につながっていたりして、当たり前だけど自分の向きとの平行という意味での平面ではない。
はじめに平面だと思うのは体の向きというより、意識の上での自分の蜘蛛の巣側への正対ということなんだろう。あっ、蜘蛛の巣見つけた、という平面。そもそも内面というのは厳密に内面的だと最近よく思う。内面には面でいられなさと面にこだわろうとするようなところがある。かかった獲物を捕食しに向かう身体自体は平面ではいられないが、前提の形式自体は平面であることが目指される。蜘蛛の巣が3次元的ではなく2次元的であることにどんな事情があるのか調べてみようと思ったがこれを書いている今まだ調べていない。
この話題はまだ考えが足りなくてうまく書けない。

内面のことから連想して亡くなった祖母のことを書こうとしたけどまとまりにならない。
世辞に疎いという言い方が思いつく祖母、テレビのニュースを見てどんなことを考えていたんだろうか。蛇が画面にうつると悲鳴をあげてチャンネルをかえてくれと顔をおおった。妹と顔をおおって指の隙間から見ている真似をしたこともあったかもしれない。
大人になって蛇を近くで目の当たりにしたとき、テレビの画面にはうつらない粘っこい皮膚と何ともいえない存在感にしばらく目が離せなかった。祖母が画面越しに感じていたのはこれのことだったのか、と思った。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。