推定の契機の両面 2022年5月22日週次投稿
週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿でございます。
取り立てて書きたいと思うようなことは思いつかない。とりあえず、ここ何日か読んでいる本の気になっているポイントについて少しメモしてみようと思う。それを書きながら何か他に思いつくことがあればいいなという感じで。
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その本がこれ。
背表紙には以下のような紹介が書いてある。
これが本の内容の紹介としてわかりやすそうなのでそのまま引用。
なるほど、なるほど。
まえがきの章には、脳の多くの機能がどのように働いているのか、人間はどんな特性をもっているのかについての統一した見方を解説していくよ、ということが書いてある。
そもそもこういう本を手にとろうと思ったキッカケについても軽く。
noteで散歩のことをいくつか書いているうちに、一般的な頭の中のプロセスのことが気になってきたものの、自分にはそれを考えるときの手立てが少ないと思っていた。そういうことへの補助線になったらいいと思って、いくつかラインを自分で用意してみたもののひとつ。
あとそうだ、門外漢にも程があるので、できる限り読んで頂いた方を不快にさせないように書きたいけど、それも難しいかもしれない。適当にお目こぼしをお願いします。
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さて早速、自分が今のところ気になっているポイントを考える前段として、この本のはじめの章で扱われている視知覚についての脳の働きのモデルについて、箇条書きでとてもいい加減にまとめてみる。
(ちょっと面倒な話ではあるので、①だけ読めば次の*まで飛ばしていただいてもつながるように書きます。)
①視覚において何かを認識する過程では、脳は眼を通して得られた光学的な網膜像の情報を手がかりにして無意識的な推論をおこない、その結果を外環境へフィードバックしている。結果、二次元情報である網膜像には元々なかった印象、たとえば立体感のようなものが得られたかたちで何かを知覚する。
「外環境を知覚する際、脳は感覚信号(感覚情報を表す神経活動)そのものを理解しているのではなく、感覚信号の原因となった外環境の構造や状態を推論している」(P.15)
②(例えば立体感のような)印象が生成されるのに無意識的な推論において一役かっているのが、それまでの人生の中で経験的に形成された認識フォーマットとその適用の妥当性みたいなもの。モデルとしての認識を扱うときにはこれを確率分布で表現したりする。(ベイズを使うらしい。頭に米酢のペットボトルの印象が浮かんだ。)
③脳は生成したフィードバックと網膜像に齟齬がないか比べて、もし齟齬があれば修正版のフィードバックが生成される。(予測誤差の最小化の過程という風にかいてある。)
この推論過程が繰り返されて最終的な推定内容が得られる。
④これは○○、という視覚認識を得るには↑で書いたような過程が働いているのと同時に、意外性みたいな紛れを少なくしていく必要がある場合がある。例えば視線を動かしたりみたいな。
そういう物理的に感覚を変化させるような刺激や推論の働きも含めそういう紛れが少なくなるということが、「ヘルムホルツの自由エネルギーを最小化する」→認識が得られる、という表現で書かれていることっぽい。
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理解が覚束ないなりのまとめがやっとこ終わったので、自分が気になるポイントにも少しふれておく。(本を最後まで読み終わってないので、途中に書いてあったら嬉しい内容でもある。)
ひとつめは、そもそもある網膜像から何かが認識される対象となるのは、どういうキッカケでそうなるのか。その対象は上の話の開始地点に無条件に設定されている。これは欲望だとか期待、もしかしたら偶然の話題ということになるかもしれない。
あともうひとつは散歩とも関わるポイント。
散歩を毎日の習慣にしているとどうしても周囲の道のりや眺めに慣れてしまって、楽しさを維持するのが難しい。いわゆる日々の変化は私にとって散歩の楽しさを得るのに充分なものにはなりづらい。
わかったつもりになって歩いている、というこのつもりが上で書いた脳の推論過程に関わるように思える。ここではある意味ひとつめの疑問の裏面に出会っている。ある網膜像が認識の過程を働かせなくなるのはどういうキッカケでそうなるのか、ということ。こっちは習慣や慣れとか退屈の側ってことになるのかな。
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最近飲んだ酒の画像をあげておく。
ここまで価格を下げると少し物足りない感がでてくるけど、まあいいやの世界である。どっちもうまい。
この画像を見て加藤登紀子の『酒は大関』を聴いた。
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。