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眺めの捉え方 2022年12月25日週次投稿

週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
今回は散歩のメモです。



ここ何日か地域の放送で行方がわからなくなった15歳の男の子の特徴を報せる内容が繰り返し流れている。黒いスニーカー、黒いリュックサック、他には服装のことも伝えていただろうか。はじめは家出かねと奥さんと話していたものの、その後に耳が聴こえないらしい、とどこかから調べたらしいことを聞いて、それだとまた違った話になるのかもしれないという印象が出てくる。

朝の散歩で東側に向かって歩き出して、今日は身についた道の流れから外れるようにしようと目当ての場所から逸れるように道を曲がっていった。道々で勤めやそれぞれの用事に向かう人とすれ違って、ふと自転車の女性がこちらを眺めやったのに気づいて、行方のわからなくなった男の子のことを思い出させた。実際その視線がどうだったかは別として、勤めの外側にある自分の表面にそれを想像する余地はあるように思われた。

散歩者の表情というのはそれと区別がつく場合とそうでない場合があるものの、勤めやその他の用事があるだろう者とは混同されないだろう。勤めや用事に向かわず散歩でもないという表面、不審ですらない表面を認めるとすればそこにどんな認識ー感情が伴うだろうか。このお年寄りは自失していないか、俺の方はどうだ、どんな表面だろうと思うことがたまにある。

イヤホンの音が一瞬途切れて、何を見るともなく後ろを振り返ると西側の山並みが眺め全体を覆うような背景になってせり出しているような印象があった。印象の強さから、その場所から2km程度離れた自宅の辺りは山の麓のように思えてくる。この普段の生活圏が山の麓だという思いつきで吉田秋生の『海街diary』で真昼の月のモチーフで語られていたことを思い出すことになった。

たしかサッカーの練習だかその帰り道だかの子どもたちが昼の空にぽっかり浮かんでいる白い月に気づいて驚く、同時にそれはストーリーの中でもそれまで意識したことのない現実があるということの比喩として扱われる。その眺めが世界観の比喩になって話もそれをなぞるように展開していく。
そういうのも面白いけど、と思う。同時にもっとベタに、意識されづらいくらいの路面の傾きや広い緩やかな窪地、道路に面する広い農地、気温が下がって澄んだ空気という地形やオブジェクト、気候の条件の重なり合いで普段意識されないことが意識されるというそのこと自体が十分に面白い。顔を見ないで同じ方向に向かって友人と歩いているということが実際に自分にもあっただろう。
筋違いの緑道を西側に歩いていると、さっきの背景の山のせり出す印象は退いて、住宅の間にたまに少しだけ覗く程度になっていた。高層階に住んでいる人だとまた違ったイメージで普段の生活圏を捉えているのかもしれない。

いつだったか武蔵野台地の北端に行ってみようと思いついて、何があるわけでもなくその北端をなぞる川べりを歩いていた。それを知らせるような看板でもあるものかと思っていた期待が外れて、緩い坂をのぼって駅の方に向かっていたときにふと視界の端に遠くの山があるのを認めて、あれはどのあたりとGoogleMapで確認すると、その何年か前に顎を強か打ちつけて1ヶ月余りほど入院したことのある病院が位置するあたりの山だった。
友人に冗談めかしてそれを話すと、
「あんたたちは酔っ払って、怪我でもしてと笑い話でいいもんだけど、うちの父親に同じようなことがあったとき、結婚して間もない兄夫婦の両親が病院まで見舞いにきて、何があったんですか、ってきかれてさ。何て言っていいかホントわかんなかったわ。」
と笑い話にさせてもらえなかった。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。