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関係、遠雷、公衆電話 2022年7月3日週次投稿

週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
今週は日記みたいなものを。



奥さんが夕食の後に、一応公衆電話の場所を確認しておこうかな、と言ってきた。そう言われれば、本を読むようなフリを見せていてもそちらを優先することになる。

子どもが寝た後の時間帯の微妙な間合いがある。
たとえば奥さんがゲームをしていれば、こちらはイヤホンをして本を構えて、それを読んでも読まないでもいいんだけどね、というカタチにできる。動画であったりスマホを眺めていたり、何かしら集中しているような素振りが見て取れたら、イヤホンをつけるのを迷ったり、片耳だけつけることもあるかもしれない。本を読むことひとつをとっても気持ちと身ぶりの押し引きのようなものがでてくる。

自分がたまにゲームをしていたり、適当にスマホをさわっている分にはそんなことは余り考えないから、そういう時間帯に読書や、書斎でメモをしたりすることには何か不釣り合いがあると感じているのかもしれない。奥さんが私にとっての本を読んだり、書斎でメモを取ったりするようなことをしていれば、そうはならないだろうと思う。奥さんがごくたまに話す自分の無趣味のことはふたりのことだと書いたことがあったけど、それにはここで書いたようなこともある。

こういうのを何度自分の神経質と考えてやり過ごそうとしたか。気になるのにはそれだけのことがあるらしいと後から振り返ったことは数回ではなかった。反省しない人間と言われたら、恥ずかしながら本当にそうなんです、と返すしかない。

関係には本当に書いてしまって大丈夫なのか、と思わせるようなところがある。外から見れば考え過ぎと言われかねないものが実際にそこにある。
そういう実感からして、妄想というのはどう考えられるだろうか。ここまで書いていることは別に奥さんに話しながら確認したことではないわけだから、妄想っちゃ妄想になるのかもしれない。

どこかのサイトで、散歩をしていると自分で思っている人を、家族が心配してに相談した時点から社会的にそれは徘徊になる、と書いてあるのを読んだ。徘徊というのは社会的な言葉なんだ、と少し感心して、ふと自分にもそれに似たようなことがあったのを思い出した。

実家に奥さんと結婚したすぐ後か何かのタイミングで帰ったときに、遅い夕食の前だっただろうか、少しだけぶらっと歩いてくるね、と伝えて家を出た。

実家の辺りは海沿いで、その海岸がそのまま山の麓になっているような地形で、日が暮れてからしばらく経ってもぼんやりは明るさが残っているような海岸沿いの旧国道をしばらく歩いているうちに、湿って少し気温が低く肌をおしつける風と、頭上に重黒い雲がまばらに移動しているのに気がついた。

いかにも故郷の天気だと思って懐かしく感じながらそのまま歩いて、漁港とそこから海を隔てて数百メートルの長さで近くの島にかかる斜張橋の中腹までたどり着いていた。

海面から数十メートルの橋の中腹から後ろを振り返って、陰になった遠くの山並みにかかってゆっくりとズレていく雨雲から、自分の身を不安に思わないような遠雷がまばらに落ちているのを眺めていた。雷鳴は届くだけで体を震わせなかったかもしれない。ココロ、ココニシカアラズ。

ふとポケットに入れていた携帯電話が鳴ったのに気づいて通話すると、どこまで行ってるの?おばあちゃん心配してるよ、と奥さんからだった。祖母は心配してすぐに体が動くような人ではなかった。私はそれに少し似た。

何度か着信があったのを気づいていなかったかは覚えていない。あのときに携帯を持ってなかったら私は徘徊だったかもしれない。

公衆電話の話に戻る。

―この辺りに公衆電話なんてあったっけ。
何日か前の通信キャリアの大規模な障害を受けて。

―最近は公衆電話って全然見ないなー。この辺りあるのかね。

スマホで検索しながら、Googleストリートビューを見て、いつも使っているセブンイレブンやファミマにあるよ、近所の中学校の前にあるわ、散歩でよく通っている公園にもデカいのがあるね、と次々見つかった。

結構あるね、とふたりで笑った。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。