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慣習と拘束 2022年9月18日週次投稿

特に何もない日常の保護シート、週次投稿です。
今週は適当にいつぞやの日常を書いてみます。



高層ビル街と呼ばれることもある新宿西口に勤めていたとき、昼休みに新宿駅から見て西側のビルの連なりと都庁から1本道路を隔てた新宿中央公園を通り過ぎて、その先の道路を跨いでゆるい坂をのぼった辺りをよく散歩していた。

わりと古い建物も混在している住宅地域で、日当たりの良い日には猫が道路に寝そべっていることもあったけど、日当たりが良いからといっていつも猫がいるわけではなかった。そのころは自分にも地域猫という言葉は身についていなかったから野良猫といっていたと思うが、そこらじゅうにいる野良猫がどういうタイミングで姿を見せなくなったり、数を少なくするのか不思議に思っていた。

いつもいくつかの猫がいる家の前にはその時々の花が咲いていて、猫と花を眺めるともなく立ち止まっていると、自転車に乗った年配の男性が乗ったままでこちらに声をかけるような調子というよりは花に話しかけるような感じで、この家の方は花を本当に上手に咲かせるように育てるんです、と声を発して通り過ぎていった。花を上手に咲かせるように育てる、というのはいまの自分にもよくわかっていないが、今の隣の家のトマトは今年の夏も美味しそうに実っていた。うちのミニトマトはそれに比べて貧相だったけど、子どもと一緒に毎日水をやって花のところが実になって、それが膨らんだり、色が変わっていくのを楽しんだ。

住宅街の特定の区画の草花との関わり方のトーンというのは一括りにはできないもののやっぱりあると感じることがある。散歩でたまに通り過ぎる区画では、草花や木で賑やかな感じではなく、松の木の枝ぶりや葉の形の整え方、花を咲かせていない植木鉢の配置やその中に少しだけ花の色が混じってるような印象にしてあって、枯れたような、でも草臥れてはいなくてカッコいい。その区画の中でもとりわけカッコいい家というのがあって、こういう家の方が朝から昼前くらいの時間に周りの家の方と立ち話をしているうちに、何となくセンスが共有されるようなことがあるのかもしれない。

猫のいる区画を通り過ぎて坂を下り、道路をわたって新宿中央公園に入ると、南側のエリアには遊具が沢山あって子どもがお母さんと一緒に遊んでいた。水遊び場の近くのネムノキはまだあるかな。
傾きの急な滑り台の下の砂場の側によくサックスの練習をしている男性がいたけど、遊んでいる子どもも昼休みを過ごす大人もあまり気にしている素振りはなく、それぞれの時間だった。

昼休みの時間の余りに目配せをして、公園の南端に接する道路を歩いてビルの方に歩いて帰った。



それにしても涼しくなったときのこの頭の中の静かさは何なんだろうと思う。たしか8月の終わりくらいにも一気に涼しくなった日があって、散歩をはじめてすぐに頭の中が静かになっていると感じた。

暑い、というのはそれだけで頭の中を賑やかにしていたのかもしれない。秋の虫の声がしていようが、車が通っていようが静かだと思う。
それに、この静かさには何があてがわれるのかと思う。

働くようになる前であれば例えば学校にはいくつかの行事があって、そういうのも埋め合わせというか、体を慣らしていくのに役立っているのかもしれない。慣習という文化的なレベルで行き場のないエネルギーを拘束している、といいかげんな想像をすれば、熱心にかかわることがなかった行事も多少は身近なものに思える気がしてくる。熱心にかかわらなかったとしても、それはそれで何かしらの拘束はあって、それは不安というかたちをとることもあっただろうか。

今年はnoteを書いているのもあってか、自分の中で気持ちの預けどころをどこに用意するか、という意識が多少はあるらしい。
過ごしやすいということ自体に落とし穴がまばらにある感じというのは油断ならない。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。