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過去の戦争・一つの視点

77年前に敗戦で終わった第2次大戦ですが、特攻や玉砕を賛美する人達、国旗や国歌も軍国的だとする人達が、平行線のまま、本当は何が問題だったのか?
そこから何を学び、今後、その体験をどう活かせばいいのかという建設的な議論が、未だできていないように思います。

この戦争について、どういう視点から見るか?
たとえば、お身内に軍の上層部がいて、その視点から見るか、庶民の目線から見るか、で異なってくると思いますが、戦後10年たって生まれた、庶民の、私の視点から書きたいと思います。

戦争を体験されても、ほとんど語らない人もいたそうですが、私の両親はよく語ってくれました。生き残った私の両親が共通で感じていたのは、戦争は悲惨な忍耐、敗戦は、むしろ解放であった、という感覚でした。

私の父は、大正14年生まれ、昭和20年3月旧制中学を卒業の予定が、19年12月に繰り上げ卒業しました。繰り上げ卒業というのは、当時は、すでに戦況が悪く、どんどん兵士が亡くなるので、補充のために卒業を早められたということです。

卒業後、すぐに徴兵検査があり、父は剣道が強かったので、幹部候補生になることができました。同時に徴兵検査を受けて、幹部候補生になれなかった友人は、すぐに南方に送られ、戦地に着く前に戦艦ごと海に沈んでしまったそうです。すでに、戦地への応援の兵隊や物資の補給もままならない状態でした。

父は、訓練とともに、出征していく兵隊さんの備品の用意などの雑用もしていました。真冬の神戸港を出港するのに、南方へ行くからと半袖の軍服で、竹筒の水筒(当時でも一般的にはアルミ製の水筒でした)を持たされて甲板に整列させられた兵隊さんを見送り、18歳の入隊したばかりの父でも、敗戦を覚悟したそうです。
上層部は、もっとわかっていたはずで、父は、この時点で降伏していたら、大空襲も原爆もなかったのに、と言っていました。

特攻も、19年10月20日からだそうですから、若者、誰かの父親、兄弟、子供が、どんどん、どんどん亡くなっていました。
私の家の隣のおじさんは、もう少し早い時期だったのだと思いますが、入隊してすぐに「おまえ達の命は、1銭5厘(召集令状の郵便代)だ。代わりはいくらでもいる。」と言われたそうです。
当時は、人権などという感覚はなく、今の感覚で論じることはできませんが、戦時という特殊な環境で、命が、消耗品のように扱われていたと感じます。

今、3.11で福島の原発が大変なことになっていても、見直しの英断ができないのは、この時の軍部と通じるような気がします。

そのうちに、大阪にも戦闘機が飛んでくるようになり、淀川沿いの訓練場に向かう途中、父達は軍服ですし、梅田で機銃掃射を受け、命からがら梅田の地下街に逃げ込んだこともあったそうです。

この頃、母は小学5年生で、竹槍訓練では「死ぬまで戦え」と教えられ、バケツリレーの消火訓練、農家の男性が出征して人手が足りないので、麦踏みなどの勤労奉仕に行っていました。
母は奈良だったので、空襲の被害はなかったですが、頭上を大阪へ飛んでいく戦闘機を見ると、庭の防空壕に逃げ込んだり、夜、上空の戦闘機に見つからないように、家の壁を黒く塗り、窓から光が漏れなように気を使っていました。大阪の空襲の時に、二上山の向こうが真っ赤になっていて、怖い思いはしたそうです。
田舎でも、農家では無かったので、物資は豊かではなく、配給の「護国」という大量に取れる品種の芋はまずかったそうです。「欲しがりません勝つまでは」の標語が生活の基本で、お鍋や時計、火鉢の鉄箸なども供出させられ、窮屈な思いをしていました。

父に話をもどしますが、3月の大空襲、父は憲兵隊に組み入れられ、空襲の後片付けに従事しました。
あまりにも多くの人が亡くなったので、公園などに集めて、ガソリンをかけて荼毘に付したそうです。
焼夷弾を、焼けた木のように足で踏んで消そうとして爆発し、即死した人も目の前で見たそうです。当時の国は、バケツリレーの訓練はさせても、そういう情報を教えませんでした。

軍は、「本土決戦」「玉砕」「進め、一億火の玉だ」などの標語を作り、女性や子供にも竹槍を持たせて、「死ぬまで戦え」と教えましたが、まさに本土も戦場になりました。
アメリカの民間人への攻撃は、国際法違反だということで、もちろん、そうだとは思いますが、我が国の軍部も、それを想定して、避けようとはせず、一億民兵化して、突入していったと思います。

今、国民を裏切っている政府の様子を見るにつけ、既視感を感じます。
今、メディアが本当のことを報道しないのも、大本営発表しかしない当時とまったく同じだと感じます。

今も「特攻」や「玉砕」を美化して語る方がいらっしゃいます。ご先祖が、軍の上層部の方なら先祖が間違ったことをしたと思いたくないという気持ちも理解できなくはないですが、
「特攻」は、奇襲作戦として「特攻」を考えた大西中将は、1回限りのつもりが、戦果を上げたので、手の内が読まれて効果が上がらなくなっても止められなくなってしまった決断力のなさの例だと思いますし、犠牲的精神のある心の美しい有能な若者をどんどん死に追いやった上層部に怒りさえ感じます。二度とあってはならないと思います。

「玉砕」については、日本伝統の武士道や古神道には、そんな言葉はないと思います。大和魂ではありません。自滅を飾っただけの言葉で、これらを美化する人達は、今だに、軍上層部と同様の思想か騙されていると感じます。

私は、若い時、一人旅が好きで、短大生の時に沖縄に行きました。もう、45年前のことです。民宿に泊まって、その民宿の息子さん、免許取り立てだったので、18歳だったと思いますが、おじいちゃんとおばあちゃんの慰霊碑があるというので、連れていってもらいました。軍から、「いざという時には自決せよ」と手榴弾も渡され、前もって、話があったそうです。米軍が迫り、もう駄目だという時に、お父さんは子供で不憫なので、親戚の人に預けて、おじいちゃんとおばあちゃんは、手榴弾を抱いて、崖から飛び降りたそうです。一緒に飛び降りた何十人の名前が石に刻んでありました。

うかつにも、どこの慰霊碑だったか忘れてしまって、これを書くに当たって調べようと思ったのですが、沖縄の慰霊碑は、あの小さい島に440カ所もあり、あまりにも多い数に、結局わからず、そして、改めて、沖縄戦の壮絶さを感じました。

沖縄で多くの人が自決されたことは、新聞などで読んでいましたが、生の声を聞いたことは、とてもショックで、私の心に残り続けました。
10年以上もしてから、テレビで「自決命令など無かった」と言っている政治家がいて、「嘘つき」と思いました。
民間人ですし、抵抗しなかったら、死なずに済んだと思います。自決された方は、アメリカ軍に殺されたのではなく、日本軍に「玉砕」を押しつけられたと感じています。

そして、沖縄では、個人の家に軍人が駐留し、駐留した軍人の人格によって、軍人が威張り散らして家人が隅で小さくなっていた、とかうちはそうでもなかった、とか、酷いのは、上官はお腹いっぱい食べているのに、若い兵士には十分な食料を与えず、近所の人に芋をもらって隠れて食べていたら、それを上官に見つかってしまって、「おまえは物乞いか!」と足蹴にされ、体罰を受けていたという証言をYouTubeで見つけました。しみじみと「負けてよかった」と話されていたのが印象的でした。
そういう思いの日本人は多かったと思います。


靖国神社の遊就館に行った時、感傷的な感情に溺れさせるような軍歌、「特攻」「玉砕」を美化する展示、これは危険だと感じました。

靖国合祀の問題も、私は、合祀するより、別にお祀りすればよかったと思います。なぜそう思うかというと、A級戦犯というと、格でいえばお殿様だと思うんですね。日本では、昔からお殿様が敗戦の時は切腹したというのは、責任を取り、禍根を残さないため、だと思います。それが、武士道、大和魂だと思います。
合祀は、遺族が「寂しがっている」と願ったと聞きましたが、ご本人は、禍根を残して責任を取れなかったことを残念に思っておられるのではないかと思います。
本当の意味の武士道、大和魂を忘れてしまっている気がします。

今、量子力学が注目されるようになってきていますが、量子力学とは、人間の意識の向く方向に現象が拡大、現実化していくのが、宇宙の法則であるということです。
「特攻」「玉砕」などを賛美し続けますと、又、そのような現実を引き寄せると思います。その視点で見ると、当時の軍部も、大々的なプロパガンダで引き寄せたといえなくもないということですね。わかってはいなかったと思いますが。

原爆については、人体実験だと思うので、あってはならないことだと思います。日本は、核兵器の被害国です。でも、原爆被爆国である日本が、核兵器廃絶の旗手にならないのは、なぜなのでしょうか?
アメリカとの関係の問題もあると思いますが、抵抗の様子もみせず、むしろ忖度しているような日本政府の態度は、大和魂を失っていると感じます。
忖度という言葉が流行ること自体、日本人は卑屈になったんだな、と感じますが、こういう空気になったのは、最近のような気もします。

戦後、GHQによる占領政策で、日本人が再び刃向かわないように自虐史観を教えた、と言われます。確かに、日本人を封じ込めるために、アメリカの利益になるように、あの手この手があったと思います。
でも、どれだけ虐げられても誇りを失わない民族もいるわけですし、戦後60年、戦後還暦くらいは、これほど情けない状態ではなかったと思います。憲法9条の解釈も、当然、自衛権はあると認識されていて、自衛隊が悪いなどと言う人は、声は大きくても、少数の人達という感覚でした。でも、私は、「日本軍」などになるより、「自衛隊」の名前の方が、本質をアピールできるし、とても格好いいと思っています。「自衛隊」の方が、肩身の狭い思いをしないで、強くあってほしいと思います。

私は、今の酷い状況は、GHQより、2001年9,11からのグローバリストの攻勢という気がしています。

私の両親は、GHQは、敗戦国に対して、むしろ温情があったと感じていました。古い粉ミルクや小麦粉を日本に持って来たとしても、それでも困窮するくらい食べ物がなかったのですから。戦時中、負けたらどれほど酷い目にあわされるかと思っていた両親は、感謝さえ感じていました。昭和天皇が、国民の暮らしを訴えてくださったおかげもあると思います。
歴史的にも、戦時中までは、神武天皇よりの神話、歴史がすべてであり、縄文時代は、封印されていました。敗戦により、縄文時代の研究が進み、私達は、1万5千年以上もの戦争のない平和な文化的な時代を持っていたことを知ることができました。
自虐というのは、自分の心の問題です。人のせいにするのはよくありません。どんな状況であっても、自分の芯をしっかり持っていたいものです。

でも、GHQの政策の中には、やはり、取り戻したいものもあります。「氣」という漢字を気力を内に閉め込むために「気」に変えた、ということを聞いた時、そこまで、巧妙に日本文化を知って対策していたのか、と驚きました。国語審議会が、漢字をころころ変えるのはなぜかと思っていた訳がわかったのと、気付かない所で操作されていたことも他にもいろいろあるのかな、と思いました。
でも、日本文化への知識の深さと、気付かせないような巧妙さに、敵ながらあっぱれ、みたいな気持ちにもなりました。
が、「氣力」は、取り戻しましょうね。

日本は、韓国併合をした時に、日本の文化をもっと押しつけるような形を取りました。西洋的な支配ではなく、日本国民と同等に、という理念だったと思いますが、韓国の文化を大切にする人から見たら、屈辱だったのかなぁ、とも思います。

韓国との間で懸念の慰安婦問題のことは、私は、慰安婦募集の新聞広告の写真を見たことがありますし、韓国人に募集を依頼していたようで、軍の権力で強制的に連行したりはなかったと思います。
ただ、国も違うし、国が関与したかどうかという論点からずれますが、私は二人の知人(女性)から、「父親が、『シナの女はすぐに転ぶ』と言っていた」と聞いたことがあります。侵入してきた兵隊など、抵抗するのは恐いじゃないですか?そういう時に「死ね」と教えた日本の教育は、本当に正しいのでしょうか?
女性蔑視、民族蔑視の実態があったことを悲しく思います。
そんなことをしない高潔な人もいたでしょうし、恥ずかしい行いをした人もいたんです。

そして、日本人の中には、そういう自分ではない他の日本人のした悪い行いも、「申し訳なかった」と謝る高潔な人もいるんです。
謝る人を「自虐だ」と非難する人もいますが、少しの非でも認めて潔く謝るというのは、自虐ではないと思います。
その日本人の美しい心は、海外基準ではなく、理解されないことや、政治的に利用されたということはあるかもしれませんが、無くしてはいけない美徳だと思うのです。
政府が、そういうきめ細かな説明をせずに、お金で「解決済み」で済まそうとしたのは、下手な心ない手法であった、と思います。

ただ、日本人にも非があった、という人の中に、天皇制や、国旗、国家までも悪者にしている人がいます。これは、グローバリストなのかもしれませんが、国家を無くしたら、歴史から学ぶということも無くなり、知恵の浅い根無し草になってしまうと思います。

私は、昭和天皇を尊敬しています。2,26事件では、意見を通すのに殺人という方法を取ったことに対し、軍が割れることを恐れていた上層部に、「自分が指揮を執る」とまでおっしゃられて、毅然と、日本ではそのような手法はいけないとお示しくださいました。
終戦時も、終戦させまいと、本当に日本人の玉砕、全滅を望んで、玉音テープを奪おうとする勢力をかいくぐって、終戦を成し遂げてくださいました。
終戦後のマッカーサーとの対談で、まず国民の生活を心配して援助を要請し、きちんと責任をとろうとしてくださったこと、などからです。

開戦については、アジア人を白人支配から解放しようとした高潔な人もいたと思います。でも、天皇陛下の反対を押し切って中国の戦線を拡大し、自分の意見と違ったら殺人してまで戦争に突入していった人がいたことも事実です。戦争反対の声を、拷問で封殺したのも事実です。
なぜ、どちらかしか語らない人が多いのでしょうか?物事は、あらゆる角度から見る必要があると思います。
日本人の中で、77年も充分議論が尽くされていないのも、問題でしょう。今からでも、もっと議論を尽くして、体験を肥やしとして乗り越える必要があると思います。

天皇制について、少し書きますと、私は、日本の天皇制は、日本に生まれてよかった、と思うことの一つです。
古代より、祭祀王、統治王のツートップ体制の形は、独裁者を防ぐ、いいシステムだと思います。両権力を持った天皇もいらっしゃいましたが、結局、祭祀を司る天皇と、実権を持つ征夷大将軍という形に落ち着き、明治で中央集権的になりましたが、今の象徴天皇と内閣総理大臣という形は、日本の伝統に戻った、とも言えると思います。

歴史的には、神武天皇以前の王朝もあったことが解明されてきているので、「神武天皇より万世一系の…」的なことには、それほど価値を感じませんが、
国民が「大御宝」と呼ばれ、仁徳天皇のように、民がご飯を食べられているか、竈の煙で見ていてくださるような「大御心」を持ってくださるのを理念としている、こんな幸せな国、って他にないと思います。
現在も、天皇陛下自ら種を蒔きいた苗で、御田植えの神事で豊作を祈ってくださったり、皇后陛下も蚕を育てられたり、諸外国の、労働を蔑み支配君臨する王とはまったく違う、労働する国民に寄り添って、国民の豊かさを祈ってくださることも嬉しいことです。

平成の時代の上皇の慰霊の旅のご様子や、災害時に国民に寄り添ってくださるお姿も拝見して、日本人でよかったと思います。靖国神社に参拝されないことも、私は支持します。ここまで読んでくださった方なら、なぜ、そう思うかはおわかりだと思います。

今上天皇の即位式で、雨があがって虹が出たのも、感動しました。日本は、神に守られ、宇宙の法則に則っている国だと実感できました。

令和の時代に、敗戦の傷を癒やし乗り越え、天皇が見守ってくださる、慈しみあう国を取り戻せたらいいな、と思います。

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