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人は宝珠

 という言葉を先月聞かされて大変しっくり来たのだが、
 どこでどう聞かされたかは別の記事に書いたのだが、

 改めて今朝そのしっくり来具合をまとめてみようと思った。

(文字数:約1600文字)



小説の書き方を記録(偏光の場合)

  2018年11月にpixivに登録して、
  4年と9ヶ月の間に、
  どうやらこれまで書きたかった事は、
  ある程度書きまくれた気がするので、

  今後はデータ整理に点訳、諸外国語翻訳を含めた、
  データ販売に力を入れていきたいのだが、

  最後に書き残しておきたい作品があり、
  これが思うように進まず二度三度と全面的に書き直している。

  書きたくないわけでも、
  書き方に悩んでいるわけではない。
  今の時点で何をどれだけ書き残したいかを吟味している状態だ。
  
  その過程で気が付いたのだが私は、
  主人公の視点と同時に、
  「主人公には見えていない」視点や、
  「目には映っていても頭に入れてない」情報を、
  並走させている。

  そうしたものが周りの人物の言動を決定付けていたりもする。

物理的存在感

  「主人公には見えていない」もののうち、
  最も大きなウェイトを占めるのは、
  主人公本来の、本人すら気付けていない、存在感だ。

  そもそも人には自分の姿だけは見えない、
  という厳然たる事実がある。

  それでいて、自分以外の人の目には、
  人によっては紙切れのように薄っぺらかもしれないが、
  人によっては強大な圧力を持って迫って来るわけだ。

  つまりその場の状況を、
  正確に把握できている人の方が、
  極めて珍しい。

  「自分」だけは見えていないのだから、
  どうしても自分の影響力を過小評価しがち、
  あるいは過大評価しがちになる。

  そこで人は一応の日用代理品として、
  鏡に頼っているのだが。

  鏡とて左右対称であり真実を映すわけではない。
  それ以前に奥行きが感じられるとしても平面でしかない。
  「人は鏡」という言い方が、
  どう足掻いても私にはしっくり来ないわけだ。

多面体かつ曲面体

  人は宝珠、であり、
  周囲との関係性は宝珠への映り込みである。

  もちろん曲面なので歪んで映っている。
  映り込みが密集した所にスカスカな所がある。
  あえて言うが密集こそ優れているとは限らない。

  しかしながら既に一個の、
  人によっては磨き抜かれて輝きを放つ宝珠である。
  人によっては輝き渡って見えないとしても、
  磨く機会に恵まれればそこには素地が存在している。

  つまり頼るべきは鏡ではなく、
  己自身の存在感である。

  自分の目には映らないとしても、
  映らないが故に、
  周囲からの反応や言動によって推し測るしかない。

  とは言え既に宝珠である。
  存在感を有する物質である。

  他人から「ここが磨かれず濁っている」と、
  「こう映っているからこう直しなさい」と、
  わざわざ御指導頂かなくては成り立たないような存在ではない。

それは誰に向けた言説か

  PL教団にせよ仏教にせよ、
  「自我を捨てよ」とか、
  「己を空しくせよ」といった言説に、
  私は不快感を覚えるのだが、

  それを訴えたところで「言葉通りの意味ではない」といった、
  「人は関係性によって存在すると言う意味だ」といった、
  解説を授けられてしまいがちなのだが、

  言葉通りに受け取れず、
  誤解を招く言説自体が口業を招いてはいないか。
  それこそ日頃充実して暮らせていた、
  貴族好みに彩った言説ではないだろうか。

  庶民向けにはそうした言説など捨ててしまえ。
  己は常に充実して在るものだと、
  自分よりも他人の目にはっきり映っている物質だと、
  自覚しておく方がよっぽどマシだ。

以上
ここまでを呼んで下さり有難うございます。


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