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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ一(3/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約4000文字)


 赤茶色の髪に続いて部屋に入り、振り向いた扉をカチリと音がするまで閉め切った上で、顔を上げる。
「『楠原、大喜』か」
 それ以外の何者でもない感じに、自然な仕草で振り向いてくる。ふわふわと、切り散らかされた髪のせいもあって全体として丸く見える輪郭の中で、ふた重の目が、大きさ自体はそれほどでもないのだが黒眼が大きくて際立って見える。
「『楠原』で、いいよ」
 そう目を細めて笑った途端に、際立つのはふわふわの赤茶色に変わり、顔そのものの印象はぼやけてしまう。黒い撫で付け髪はそれを見て「ふむ」と呟いた。
「そっちは『田添、慎一』だったな」
 目線こそ据えているが田添は、不自然な間を開けて「そうだ」と答えた。ひと文字ひと文字思い返すような間だったが楠原は、何も言わずに苦笑する。
「『ぞえちゃん』って呼んでいい?」
「断る」
「分かった。じゃ、『田添』で」
 二人が顔を合わせたのは、その実今日が初めてだ。「楠原」も「田添」も偽名であり、学生という立場も、官立私学の区分も偽装。お互いに本名も素性も知らず、聞き出しても聞き出されてもならないものとされている。
 そうした偽装に工作が、なぜ必要になるのかを言えば、二人が隠密の偵察員、すなわち密偵をしているからなのだが、当今の新聞小説に面白おかしく書き立てられているような、目覚ましい大活劇とはほど遠い。適性検査も兼ねた一年目を経て、ようやく実地に出だした辺り、言うなれば、世に出たばかりの新米だ。
 おもむろに外套を脱ぎ払った田添に、「たはっ」と楠原は力の抜けた声で笑った。
「うわぁ官立の、制服かよ」
 真っ黒の詰め襟学生服を、これもまた入学直後の一年小僧のように、ピシッとシワ一つ無く手入れを行き届かせているのだが、
「会合を終えてそのまま来させられたのだから、当然だろう」
 掛ける場所に道具を目で探している田添は、吹き出された理由に全く心付いていない。
「悪い。次来る時までに用意する」
 と笑まれて外套は大人しく、小脇に抱えた。
 官立の学生などには縁が無い、建築やら美術やら、外国語やらを専門に学ぶ、私学生を対象にした下宿屋だ。扉から対面の壁に向けて並べた三畳間に、文机と長持が置ける程度の板張り、文机から見上げた壁には換気と明かり取りのための小窓、といった充分広いとは言い難い部屋だが、個室を貸してくれる事自体が珍しい。
「どこで、俺の名を知った」
「どこでってお前、寮で。阿川あがわさんと同室だろ?」
 松原も阿川も同じく偽名で、それぞれの直属上司にあたる。
 一年目は上司を手伝う形で業務に慣れ、二年目以降は上司の監督を受けつつ、基本は二人ひと組になって行動する。三年目からは自分達が上司として、新入りの指導監督に回る。こうした流れを作り維持して行くためにも、ここ二十年の間に掃いて捨てるほどに数を増やした、「学生」という立場、殊に学生寮を有する官立の存在は都合が良かった。非公式ながら位置付けとしては警察の下部組織、になるので、学生証等の偽造も容易だ。
 一方で年に数名程度は、何かしらの理由を付けて楠原のように、寮を離れる者もいる。そうした言ってしまえばワガママは、大方の者には許されず、要はそのまま免職になるものと、田添などは思い込んでいたのだが。
「『軍人家系の、長男のくせに』」
 奥の壁際に、畳の長い辺と垂直に敷かれた布団は、確かに今しがた脱け出したものらしく、ぬくもりも残っていそうなくったくただ。
「『軍人にさせるには、背丈が足りなくて』」
 端から丸めて行きながら、玄関側の壁に寄せ置くと、
「『せめて学業で身を立てろと、ほとんど家から追い出される形で、寮に放り込まれた』」
 しまうべきはずの長持が板張りにあるというのに、そのまま布団の丸まりに背をもたせ、両の脚を、投げ出す形で座り込む。
「ってお前寮中に言いふらかされてんじゃねぇか」
 更に文机からは所々薄汚れた灰皿を持って来て、畳の上にじかに置くと、羽織の内から取り出した安い銘柄の煙草に火を点けた。
「阿川さんだな。すげぇあの人の、執念深い意地の悪さがにじみ出てる」
 クックッと、吐き出す煙に紛れながら笑っている。防火意識やら衛生観念やらに、今にも口を出しかねない様子で田添は、顔をしかめていたが、何も言わずに座り込んだ。
「ついでに言っとくと俺の方は、『田舎じゃそこそこ裕福な、地主の次男坊』。ふふっ。気楽な立場で、有難ぇや」
 傍らに外套を置きその上に帽子も乗せて、楠原に向けての四十五度、扉を引き開けた来客が真っ先に目を合わせて驚きそうな位置に、背筋も伸ばした正座だ。
「下宿屋に、悟られている様子だったが」
「ええ? ああ。大丈夫大丈夫。おばさんも安心して、ちょうど今」
 布団にもたれたまま扉に向けた目線を、ゆっくりと移動させる。
「台所に戻ったし」
 次に天井へと目を移す楠原を、田添は顔色を変えないままで見詰めている。
「今の時間は真上も両隣も、出払ってる。しいて言うなら二階の端に一人、いるんだけど」
 見上げた首を、丸めた布団の上側に回し、
「建築やってる奴だから夕べもかり出されて、朝方帰って来たから、うん、今は高いびきだ」
 まるで見えているような物言いをする。そう、思っただけにせず田添は、口に出しても訊いてみた。
「見えるのか」
「うん」
 当然のようにあっさりと、答えてくる。目線は依然天井に向けたままで。
「見えるよ」
 呟いた自分の言葉が、遅れて今耳に届いたみたいに、「へはっ」と気の抜ける笑い方をした。だらりと布団にもたれ直し手も振りながらへらへらと。
「ってか見えねぇ見えねぇ。そんなわけねぇって」
「どっちだ」
「ほら誰にだってあんだろ? 同じ屋根の下に寝起きしてたら、今時分は何やってる頃合いだな、とか、顔色も大体読めてきたり」
「そうらしいな。俺にはよく、分からないが」
 言いながら自分の煙草を出してきた田添に、楠原は灰皿を寄せようとしたが、
「感心しない。むしろ見えてくれた方が助かった」
 銘柄を見て手を止めた。高級品だ。一本一本が貴重で、喫煙の習慣はあるから近くで吸われても構わないが、自分は場所を選ぶ、と伝えている。
「分かった気でいる事は非常に、危険だ。一つ一つ、確かめなくては」
「ちょっとは気を抜いて適当にやれって。一つ一つ、確かめてるからお前尾行したってすぐ気付かれてんじゃねぇか」
 煙草の箱に落としていた目を、キッと鋭くして上げてくる。一般人らしからぬ目の色に楠原の方では「たははは」と、しょうがないみたいに笑っている。
「俺の評価まで、なぜ知っている」
「大体で察するよ。ってか察してくれよ少しは。寮中に言いふらかされてんのだって、あの人の分かりにくい優しさだからな」
 あの人、と顔形を思い浮かべたように呟くと、田添は息をつき背筋を丸めた。崩した正座をあぐらに切り替えてから腕を組み、
「さっきから、気になっていたんだが……」
 固く目を閉じた眉間には縦ジワが刻まれている。
「なぜ、阿川さんの人となりまで。一年の間は直属の者以外とは、あえて接点を持たないよう通達、されていただろう」
 ぱか、と大きく開けた口を楠原は、ぱふ、と下唇から閉じてそのまま、息を抜く。妙な溜め息のつき方をする、と田添も見ていたなら思っただろうが、今は目を閉じたままでいる。
「そんなもん、守っちゃいられねぇよまだるっこしい。どうせ先々付き合ってく奴等なんだ。早めに声掛けて、仲良くなっといた方が得じゃねぇか」
「俺は松原さんと今日初めて口をきいた」
「そんで真っ先に怒鳴られただろ。『頭使った事無ぇのかてめえ!』って」
 その通りだ、と更に深くなった眉間のシワが語っている。
「『言われた事何でもかんでも、そのまんまに受け止めてんじゃねぇぞ!』とかな。だから人となりくらいは早めに掴んどかねぇと、とか言って、俺も阿川さんの方は派手にやらかしちまったみてぇだが」
「そうだろうな」
 と田添は独りごちてから目を開けた。松原と違って阿川は、規律違反に越権行為をひどく嫌う。怒鳴り付ける事は無いのだが穏やかそうに笑みながら、気付かれるまで謝られるまでは、ただひたすらにいつまでも怒っている。
 組んでいた腕をほどき田添は、長く落とし込むような溜め息をついた。チラとその顔に目をやって楠原は、残りわずかにちびかけた煙草の、吸い口すれすれをつまみ持つ。
「ってか阿川さんほどじゃないにしても、ちったぁ気を遣って欲しいよなぁ上の方でも。官立ばっかで固まって、物騒だったらありゃしねぇ。官立の頭しか揃ってねぇからだな。一人二人どころか普段から、大枠で私学も入れとけっての」
「経費に、管理の問題だ。自分から煩わせて睨まれる意味が分からん」
 黒眼の大きな目が向けられて、つられて田添も目を上げた。じっと黙ったまま見詰められる間を、一回、二回と田添は瞬きを数えている。
 焦点が分かりにくく、何を見て何を思っているのか、読み取りにくい目だ。見詰められた側が戸惑って、言い出すつもりでいた事を忘れたり、見透かされたくない本心を思い浮かべて冷や汗をかいたりしそうだが、
「何だ」
 単調に返された楠原の方が、「いや」と少し戸惑った。
「俺の顔に何か付いているのか」
 そうじゃねぇよ、と苦笑する。小説などでは見掛けるが、現実に真正面からそんな訊き方を、選んでくる者も珍しい。
「安心したんだ。なんか、お前の口振り聞いてたら、俺が昔から知ってる奴に」
 尽きかけの煙草を楠原は、灰皿に押し付け、そのまま潰れ崩れていく灰を見詰めた。
「全く似てねぇ」
「全ての方面から意図が汲み取れない言い方だな」
 軽く呆れている程度で田添の顔には、大した感情が乗せられていない。


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