聖書読書記録(40週目280日間)
2023年10月7日~10月14日
ヨハネによる福音書1−1〜21−25
巻末「旧約聖書からの引用個所一覧表」中の、
「ヨハネによる福音書」部分も合わせて読了。
内容:
四種の福音書の一つであり第四番目。
イエスの神々しさが、
パーフェクトリィにグレードアップ!
もはや「ナザレのイエス」じゃないね!
まさしく「キリスト」感満載だね!
母や兄弟や誕生の様子なんか一切無い。
「カナの婚礼」(水を葡萄酒に変えた)追加。
ニコデモさんは忘れた頃にまた出てくる。
「サマリアの女」のエピソード追加。
神殿から商人を追い出すためにムチ使い出した。
多分そのせいもあって某新興宗教団体では、
小学生程度の子供までがムチ打たれる羽目に(滂沱)。
ラザロがいつの間にかキーパーソンに。
ってか「マルタとマリア」の姉妹が、
ラザロの兄弟になったばかりか、
彼女がイエスに香油を塗ったマリアになってる。
(いやそもそも「マグダラのマリア」が
香油を塗りかつ「罪深き女」だったなんて、
マタイ版にもマルコ版にもルカ版にも、
ヨハネ版にも記されていなかったぞ?
後世が勝手なイメージで読み換えたよな。)
12使徒が明記されていない。
最後の晩餐を共にしたのも12使徒に限られてない。
そんな事よりイエスの母を家に引き取った、
最後まで印象的な余韻を残す、
「イエスの愛しておられた弟子」って誰。
イエスの十字架を無理やり背負わされていた、
キレネ人のシモンさんがいなくなって、
イエスは自ら十字架を負うようになった。
最期の言葉は「喉が渇いた」に続いて、
「成し遂げられた」。
ヨハネ版で初めて詩篇からの引用句じゃない。
亡くなった後更に脇腹を槍で突かれて、
復活した後弟子のトマスにその傷触らせてる。
ってか弟子たちの前に3回も現れた。
最初から最後までひたすら神々しかったせいか、
復活後の神々しさはルカ版より薄め。
ざっくり感想(実にざっくり):
ごめんなさい。ごめんなさいね。
私何のかの言って今回初めて聖書を読み通す、
異教徒なものですからね。
正直な感想を申し上げちゃいます。
ええ「不信心者」と白眼視されても結構です。
ヨハネ版、嫌いです。
『マンハッタンの怪人』を記した時の、
フレデリック・フォーサイスのような、
「俺様がもっとイケてるキリスト書き表すぜ」
感に満ち満ちているように、ごめんなさい。
私には読めてしまいました。
なぜならそうした態度を、
私自身は好まず、常日頃、
なるべくそうなりたくないと思っているからです。
ええ私自身の都合ですが、
実在の人物及び、
過去の伝承には敬意を払わなくてはならない!
しかしながら、
最後まで読み終えると、
ヨハネはどうやら「イエスが愛しておられた弟子」に、
相当近しい人物らしいなと。
もしかしたらヨハネ版は、
イエス亡き後の親族たちに向け、
その死をより意義深いものに替え、
彼らの悲しみを慰めようとしたバージョンかもしれない。
だとしたらだいぶ好き!
ああ前言を翻すけども!
と言うより更にごめんなさい。
熱心なキリスト教徒には、
冒涜と受け取られるかもしれませんが、
その弟子、男性とも限らねぇよなぁ。
(※「マグダラのマリア」ではない。
彼女はペトロとその弟子の二人に、
遺体が無くなった事を知らせに行ってる。)
「彼」と明記してあるじゃないか、
って言われたところで、
ヘブライ語版を英語にして日本語訳してるからな。
正直代名詞の訳まで正確か分からんぞ。
弟子の名前すら明記されていないくせに、
最後の晩餐では、
イエスの胸元に寄りかかったままだって言うし。
何で誰一人そういった疑問を抱かないのか、
抱いた端から異端者に仕立てられていたせいか、
私が純粋に異教徒で今回初めて読み通しているせいか、
子孫がいたっておかしくないんじゃねぇの?
って疑問が私にはごく自然に湧き上がるんだが?
ってかごめん。むしろそうあってくれた方が、
私は普通にイエスに親しみが湧きまくるんだが?
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