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NK by MJ、または無題

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 Pixivで公開してきた小説以外の文章を、
 noteに移して行きます。

(文字数:約1700文字)


 NK、
 それはみうら(M)じゅん(J)氏言うところの
 「何だ(N)これは(K)」。

 つまり岡本太郎精神、
 転じて現代美術。

 クリスチャン・ボルタンスキー展
 「Lifetime」に行ってきました。
 (注:Pixiv公開時2019年5月8日の記事です)


 ワタクシほんまにふらりと立ち寄ってみた身ですので、
 ボルタンスキー氏がどこのお国の、
 如何なるお方やらも存じませず、

 以前から関心があって大好きという方々には、
 どうかよちよち歩きの幼児を見守る気持ちで、
 微笑ましく読み流して頂きたい。

 多分ここが重要なポイントだと思うんだけども、
 入口でパンフレットを一部取って、
 会場内に説明なんぞ無いからパンフ覗きながら好きに見て回れ、
 ってスタイルらしくて
 (正式には「インスタレーション」とか
  「空間演出」とか言うそうです)、

 浅草花やしきの見せ物小屋(お化け屋敷にあらず)ですら、
 ビビりまくってなかなか先に進めなかった私としては、
 新しい部屋を見付ける度にパンフを読み込んでの、
 心の準備が必要になる。

 これがまた長く立ち止まってはいたくない部屋ばっかりで、
 時々中央の明るめの部屋に戻って、
 気持ち的にリセットをかけなければならない。

 好きか嫌いかで言えば、好きです。
 結果じっくりと二巡しました。
 しかしながら正直なところ、

 「イヤな奴だなぁコイツ」
 とは思いました。

 普通に暗くて怖くて気持ち悪い。
 だけどまぁ普通に暗さや怖さや気持ちの悪さを、
 味わってもらいたい作品群だろうから、
 それで正解だな。

 そしてそうした中にいながら、
 所々異様に居心地が良い。

 あぁそうそう我々こういう所にいた。
 そして今現在まさしくこういう所にいる。
 絶妙な不安感と孤独感に、
 かえって「好きなだけ居て構いませんよ」と
 存在許可をもらえている気になる。
 (せやけどあんまし長居したらあかんで。
  何か心の奥の大事なもん持ってかれるで。)


 大阪会場では併設で、
 「見えないもののイメージ」展というのもやっておりまして、
 こちらもNK、
 つまり現代美術の作品群がズラリ。

 人それぞれ感じ方はありましょうが、
 一つ、一つだけどうかお願いしたい。

 『無題』だけはやめて。

 NO NAME、
 nameless、
 その他各国語の『無題』もどうかやめて。

 みたいな事を、
 以前知人カメラマンと話した会話を思い出す。

 「言葉で表し切れないから作品にしているのに、
  どうしてそれにまた言葉を付けなきゃならないの」

 「いや『作品No.135』とかでいいの。
  『6月、晴れ、アトリエにて』なんかで全然構わないから、
  何かしらの制作者の心の動きをちょうだい」

 「それって単なる記録であってタイトルとは思いたくないし。
  言葉を付けちゃうと、
  その意味に引きずられ過ぎてしまうじゃない。
  意味なんて考えずただ作品を感じ取って欲しいんだ。
  そのための記号としての『無題』なんだよ」

 「丁寧かつ親切な説明を有難う。
  でも、でもそれだったらいっそのこと、

  『   』

  にしてくれないかな」

 「……。
  意味分からない。それこそ『無題』でいいじゃない。
  何も無しってのもなんだかしまらない、
  ってか格好付かないじゃない」

 「いや。
  その心許なさを見る側はまず感じ取ってしまうんだ。
  違和感を覚えるならどうにかその差分を何がしかの言葉に」
 「言葉なんか当てにならないし頼りないし」
 とどこまでも会話は平行線。

 非言語文化に生きる者が、
 言葉に違和感や不信感を抱くのは致し方ない。
 確かに言葉は万能ではないんだが、

 一助にくらいはなるんだよ、ってか、
 一助程度でいいんだよ、という事を、
 私は切に訴えたい。


以上
ここまでを読んで下さり有難うございます。

ついでにこちらにも足を運んで頂けると、
より有難いです。


何かしら心に残りましたらお願いします。頂いたサポートは切実に、私と配偶者の生活費の足しになります!