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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ四(4/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2700文字)


春駒はるこま?」
 そう、とだけ弥富やとみは答えた。ふっくらした指に持つ煙管を、けだるそうにふかしてみせながら。
「このところ、荒らし回ってるらしいのよ。見た目はとんでもなく若い子なんだけどね」
 後を継いで詳しい話は、妹分の弥栄やさかが聞かせてくれる。
 浅草の、芝居見物を趣味にしている芸者達で、幕間に外の空気を吸いたいと、芝居小屋を出て来る。都合が付いて気が向けば楠原を見つけ、だらだらと世間話に日頃の愚痴なんかを聞かせてくれる。
「金貸してやったりひと晩泊めてやったりしたらすぐ、馴染みの男盗られちゃうって」
 同業者、よりは商売敵、更にそこよりもひと筋逸れた、関連業者辺りの方が、目当ての連中について様々に知っている事を語ってくれる。
 という次第で時折昼の浅草に赴く楠原に、下宿から付いて来た田添は、女達が近寄って来るなりあからさまに後ずさり、遠ざかって通り沿いに並ぶ錦絵などを覗き始めた。
「軍人家系に育ったせいで女性恐怖症なんだ」
 と話してやると女達には「可愛らしい」とかえってウケた。実際には嫌悪症なのだが、本当の事を細部まで教えてやる必要も無い。
 通りに田添を残したまま、芝居小屋の脇に並ぶ縁台のそばに、寄り集まっているくせに誰も座らない。女二人は「さっきまで座っていたから」と立ったままだし、楠原は道端にしゃがみ込んでいる。他の客達、中でも男どもが、一団に気圧され遠巻きに座らされて、やっかみ半分邪魔に思っている。
 肉付きが良くふくよかな弥富は、弥栄に比べて真っ白に塗りたくり、唇の紅も緑がかった古めかしさでいる。盛りも過ぎた時代遅れの女、という当今の「流行り」で、そうした女は毛色の変わった若い男を連れたがる、という役回りをわざと演じている。
 妹分の弥栄でも、楠原よりは二つ三つ上、なので詳しくは訊かないが、若さで競えない弥富には経歴の誇示こそが売りになる。
「金に困ってるのかって訊いてみたら、そうでもないみたいでね。親に売られたわけでもなけりゃ、借金も無いってケロリとしてる、ってさ」
「なんでそんな娘が、わざわざ」
 さあね、と煙混じりの吐息が言えば、楠原も弥栄もそちらの側に気を寄せて、目配せを交わし合う。
「手っ取り早くたくさんの、お金が欲しいとか、そんなあたりじゃない? なめてもらっちゃ困るんだけどね。ああいった仕事も」
 機嫌を損ねたらしい姉さんの、気を散らし懸命におもねってやらなければならない、という一種の「遊び」である。弥栄は少々大袈裟に、話題の娘を笑ってみせる。
「それでもお客取りに行ってんだからさ、当然玄人だと思うじゃない。ところがとんだ、ド素人。お好きにどうぞーって横たわったっきり、なぁんにもしない、らしいのよ」
 へはっ、と楠原は吹き払うように笑う。
「そいつはおめでてぇなぁ。なんだ。何の店広げてるつもりなんだか」
「聞いた事も無いような、ひどい訛りで話すらしいわ」
 横目に見ながら弥富は、煙管に葉を詰め直している。
「田舎から出て来たばかりで、ろくに礼儀も知らないんでしょ。この坊やなんかには、ちょうど良い手合いかもしれないけどね」
 田舎出であろう楠原に、わざとみたいに聞かせてくる。合わせて楠原は分かりやすく、「ちぇ」とすねたふうに顔を背けてみせる。弥栄は口元を、袖に隠して笑い出す。
「若い子だからってあんたも、気を良くして寄ってっちゃダメよ」
 今更な忠告をわざわざ、言い聞かせてくる。
「素人買いなんてタチが悪い。男がやる事じゃないんだからね」
「男。まぁだまだ男だなんて……、言えたものじゃあ」
 ふふ、と笑みながら弥富は、吸い点けた煙管を持つ手首を返し、
「だけどまぁ、坊やにはね……」
 吸い口を楠原に向け、差し出してきた。
「見る目くらいちゃあんと、付いているんだろうけど……」
 周囲の男どもの方がニヤついたり、横目に一団それぞれの顔色を、窺ったりしている。視線を充分に身に受けながら楠原も、へへ、とでれたそぶりで受け取って、これ見よがしに口を付けるが、それを見る弥富の目は笑っていない。
 む、という言い方が相応しい道具だ。そうっとなぞるように舌先に、乗せた煙を面の上に転がす。美味い、と自然に目が細まり、煙の吐きざまもゆったりしてくる。良い煙草だと分かると同時に、普段どんだけ安い葉吸ってんだ、と自分に呆れもする。
「まぁね。ガキに用は無いよ」
 袖に隠して弥栄が、吹き出してきた。
「あんただってガキのくせに」
「だからだよ」
 コロコロと可愛らしい笑い声の方は見ず、立ち上がった目線を煙管の持ち主と合わせながら、もう一服嗜んだ煙管を、
「ガキ同士で遊んでちゃ世話ねぇや。そうだろ?」
 返してやると受け取った弥富は、即拭いもせずに口を付けた。

 ところで通りに残された田添は、店並びもひとしきり眺め終え芝居小屋の側を向いて立ったまま、煙管が楠原に向けられた辺りから、腕を組んでうつむき両目も固く閉じて、良く見るとわずかばかり震えていたのだが、
 やがて近寄って来る楠原の、足音が聞こえるなり目を開けた。楠原の方が足を止め、「おっ」と一、二歩ばかり後ずさる。
 口を閉ざしたまま楠原には、背を向けて歩き出す。楠原も、何も言わずに付いて行く。前を行く背中に全体を、ひと回り外側まで眺めながら。
 気を落ち着けるに充分な間を空けた上で田添は、溜め息をついた。
「何だお前は。あの女ともそういった、間柄なのか」
「あっ。あはっ。あはははは見てたのっ?」
「『見てた』じゃないだろ『見せ付けてた』だろ『見たくなかった』から『見なかった』んだ俺は」
 いやー、と背後からの声は何が面白いのか笑みを含んでいる。
「郭の女に懸想しているのかと思えば……」
 プッと思わずのように吹き出して、すぐに「悪い」と言ってきたが、田添にはどの事柄に対して何を思っての言葉だか分からない。
「そりゃそういった間柄でも無きゃ、姉さんが俺なんか、鼻も引っかけちゃくれねぇって。これも便宜だよぉ。一種の方便」
「俺には全く、理解できん。自分の心に恥じるところは無いのか」
「心? あー……。恥、ねぇ……」
 田添の方が足を止め、「ん?」と聞こえるように振り返った。
「俺そのへんは別にもう、どうだっていいかな」
 へらっ、と適当くさく笑ってみせる顔を、油断無さそうに、皮の下にまた別の顔でも透けて見えるみたいに、注視している。


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