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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ四(3/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約3700文字)


 裏口を守りに来た警官に、縛り上げた男二人を引き渡すと、街娼達に客達に、経営者が集められた表玄関では、事情聴取が始められている様を一応は確認した上で、
 楠原と田添は壁に耳を当てていた間よりも、ある意味不愉快な業務に入る。
 目に入れるのも臭気を嗅ぐのもおぞましい、笑い話にしようにもしょうもなくってお話にならない、他人様の残りカスが、あれやこれやに何やかやと散らばりまくった「犯行現場」の、一つ一つを歩いて回り、人一人が隠れ潜めそうな合間を覗き、物を隠し置けそうな隙間に、腕を少なくともひじくらいまでは突っ込んで探る。これからしばらくの間、数ヶ月は無人になるだろうこの家に、産みたての赤ん坊でも置き棄てられてあったなら、警察の失態怠慢無能力ぶりを、新聞が派手こくお涙ちょうだい的に書き立てはやし立てかねない。
 ついでに言っておくと新聞、という業種もここ二十年の間に誕生したもので、質はピンからキリまで際限無く存在している。
(何も無い)
(こちらも)
 手話めいた身振りを見せ合って確認し合うと、楠原と田添は誰よりも先に物件を離れる。裏口に立つ警官二人に一応は背筋を伸ばし、敬礼もしてみせるが向こうからは、
(何をしに来たのだ貴様らは)
(お前達からの敬礼すら薄汚い)
 と言いたげな目付きで見下ろされるだけだ。
 形の良い口ヒゲを伸ばす警官達にすら、密偵の役回りに、存在意義を認識されていない。存在にくらいは気付いているが、どういった組織で、自分達の下部に位置している現実すら把握していないかもしれない。御承知置き頂く必要も無いほどに、結構な御身分の方々だ。末端の一員であっても、御先祖様からすでに。
 自分達は声も出さず物音も立てず、暗い隙間に入り込み、一般市民からはその存在を知られないうちに消えて行く。そんな役回りのはずだがそうした者達の方が、市民達の興味を強く惹く。
 実際には見極め切れなかった姿形を思い描き、場所柄から淫猥な空想も織り混ぜて、呑み屋などでさも見てきたかのごとく吹聴する。おかげで実態には届きにくくなって助かるが、田添が耳にしたら大変だ。怒り狂って「事実と違う!」とでも叫び出しかねない。
 グイッ、と楠原のとんびが隣から、引っ張られた。間近に引き付けられた帽子の陰からも声がする。
「どういうつもりだ」
 現場からは相当に離れ、川の対岸からは常夜灯が照らしてもいる界隈まで来れば、自分達は朝帰りの酔客に見える、声を出しても差し支えないと判断したらしい。もちろん小声ではあるが充分に、怒りを含んでいる。
「ど、どういうって」
「あの場で呑気に空を見上げ、声を出すなど無能にも程があるぞ」
 言われてなお心付かず、数秒ほどを思い返してようやくハッとした。月を目にした間に思い浮かんだ事を、つい口にも出していたらしい。
 幸いお取り込みの真っ最中であり気付かれなくて済んだようだが。
「中の者達が気付いていたら、どうなっていたか分かるな。あの場所は地下に潜り、女どもは散り散りになる。皆のここ数ヶ月の働きが、お前一人のために無益になるんだ」
 とんびから離した手を人差し指のただ一本に変えて、楠原の胸の中央、左右から鎖骨が繋がる辺りに差し突けてくる。
「お前、一人の、ためにだ」
「ごめん」
 実に素朴なひと言がきたので「は」と田添はただ呆れた。
「自覚していない奴に、言い聞かせても意味は無いな」
 楠原には背を向けて先を行く。明治になって次々と架け替えられている、石造りの大橋には詰所があり深夜でも番人がいて、通行料さえ支払ってしまえば怪しい者だろうと渡らせてもらえる。建設資金を徴収するための番人であるから治安の維持などには関心が無いが、木橋の時代、橋桁の内側に人がしがみ付いていた頃とは違って、他に人がいなければ通行中は仕事の話も出来る。
「手入れの度になんかこう……、気が滅入るんだ」
「当然だ。俺もそうだ」
 とは言え互いに見聞きしたものについて、突っ込んだ話をしたい気分でもないが。
「俺この仕事向いてないんじゃないのかなぁ……」
「向いているか、いないかは問題じゃない。与えられた仕事は、真面目にやれ」
 相変わらず言葉の並びの一字一句に、即した色味しか浮かばない。あまりに色味が揃い続けるので楠原は、ここふた月の間に田添慎一に限っては、色味を気にする感覚を忘れてしまっていた。

 警察署内の廊下に取り付けられた掲示板は、隠し扉になっていて、開け方さえ心得たなら誰でも入る事が出来る。とは言え偶然にそこを発見した者は、中を見て拍子抜けするだろう。
 口ヒゲを生やした小太りの、全体として丸っこく見える小男が、机の上に所管内で記された今日一日分の調書、その写しを綴じた紙束を置いて、椅子にちょこんと座っているだけである。
(閑職つらい。ヒマだヒマだヒマ)
 いつ見ても眠たげな顔にはそうした色味ばかりが張り付いているので、彼に対しても楠原は色味を気にしなくなりつつある。
 その実彼は密偵達にとっての「所管長」であり、警察側の調書と密偵達の報告とを、突き合わせて確認し終えるまでは、彼の一日が終わらないのである。そして報告に齟齬などは滅多に無い。誤りを見つけたところで警察側の調書こそが、正式なものとして既に認定、登録済みとされ、余程の大事が覆らない限りは指摘したとしても訂正に至らない。
 日々滞りなく国内は浄化の一途をたどっている、官員は皆一丸となって懸命に取り組んでいる、その記録のみが積み重なれば良いのであるから。
「今日も何事も無かろうがね。念のため手順も省けんからの」
「お気遣い無く。手順は踏まえるべきものと、心得ています」
 報告や報告のための記録取りは、田添の方が得意でかつ正確だ。任せて楠原はその間隠し扉の裏に背を持たせ、帽子の下の目も閉じて呆けている。
 廊下の奥、突き当たりの部屋からは今しも、男二人が出て来るところだ。
「災難だったなぁ、今夜は」
「まったくだ。こってりしぼられちまった」
 どういう顔見知りなんだか逃げようとしていた時とは逆で、腹が突き出た方が偉そうに煙管をふかし、筋張った方がその後ろで、へこへこ身を屈めている。
「しっかしなんだよあの、犬畜生」
 瞬間だけ楠原の目が開いた。廊下を行く二人からは、壁の内にいて気付かれないが。
 そして壁を通した男どもの声は、くぐもって部屋の内側から容易には気付かれない。ただ一人扉に張り付いた楠原だけが聞き取れている。
「アイツら俺達が楽しんでっとこ、ヨダレ垂らして聞きながら、お外でおっ立てたシッポ盛んにしごき回してやがんだぜ」
「違いねぇ」
 手を打ち鳴らしながらの哄笑に、煙混じりの苦笑。
「お犬様のご熱心なお仕事ぶりには」
「我々とてもかないませんってな」
「……聞こえてんだよ。馬鹿野郎」
 ボソッとした楠原の呟きだけが、田添の耳には伝わってきたが、
「えーと君は田添くん、と言ったかね」
「はい」
 声を掛けられてすぐ所管長の方を向いた。
「ワシ退屈でぇ。毎日ここにおるの飽き飽きしとるんよぉ。なんか面白い話とか無い?」
「面白く、思われるかどうかは分かりかねますが……」
 下品な笑い声が過ぎ去った後は、ピチャン、ピチャンと鳴る水の音。手洗い場の水栓でもゆるんでいるらしく、階段室のコンクリートに一定の間隔で反響している。
(どうか。どうかお願い)
(堪忍して)
 突き当たりの部屋から漏れてくる、女達の泣き声。そら泣きに言い逃ればかりで浮かんでいる色味も様々だが、その中に、
(子供が、病気で。どうしても、その、お金が)
 ひと際固く青ざめた色味が届いてくる。今まさに、警察側の所管長に向けて、秋訴の最中であるらしい。
(今月貴様は、すでに二回捕まっているだろう。多すぎる)
(そんな。そんなはずありません。人違いです私は今日、今夜初めて)
(無駄だ。こちらの方ではとうに、調べが付いている)
 調書の中に背格好が似通った者があれば、同一の者として扱われる。初犯だともうしないと泣き落として、逃げ延びた女にたまたま条件が重なっていれば。
 組織として重要なのは目下のところ数であり、個人の特定に、事情の類いはどうだっていい。しぼられたところで解放される男どもはあくまでも、「被害者」であり、事実初犯であろうとなかろうと女達は、「加害者」なのだから。
(そんな。お願いあの子は今家に、一人なんです。二ヶ月も、私が戻らなかったら病気で一人であの子は、どうなるって言うの)
(どうにも、ならんだろうな。諦めろ)
 帽子の陰の目を楠原は、固くつぶったが、彼の場合は視覚から来ている色味ではない。
(生きざまを、戒める事だ。牢に入れ)
 絶望と、身を焼き焦がし貫くような恥と、行き場の見当たらない怒りに恨みに悲しみとが、混乱の嵐が部屋中を駆け巡り、廊下に向けても一斉に、吹き荒れてくる。
 誰にも届かない。自分にしか分からない。出て行って「自分には分かる」と言ってやったところで変わりはしない。証拠となる品など現実には物質としては、存在していない。

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