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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ六(2/4.5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約3300文字)


「姉様っ!」
 自身に付けられている禿かむろの、小鈴こすずが部屋に駆け込んで来て、
「どうしました? そんなに慌ててお行儀の悪い」
 と静葉は鷹揚に、振る舞って見せようとしたのだが、
「すみませんっ……。でも……そのっ……、今朝からっ……」
 座っている自分の膝元に、うずくまった小鈴が、顔色も青ざめ震えてまでいるのを見て息を飲んだ。
花里はなさと姉さん、見かけませんでしたか……?」
「花里さんが、どうかしたの?」
 言いながら、静葉も気付いていた。足抜けだ。吉原を、逃げ出したのだ。
 そこから田嶋屋は店中の、人が通れそうな戸口に僅かでも通り抜ける可能性がありそうな隙間を、全て閉め切って、若い子達を駆り出しての大捜索に、丸一日を費やした。小鈴も含めた禿たちには、何か不審な事など見聞きしていないか、いや、いるはずだ思い当たる事は洗いざらい話せと詰め寄っていた。
 花里が見つからなければお前たちも、姉様たちの借金も倍増しにしてやる、と脅されて、本気に受け取るしかない幼い子供たちを怒鳴り付けてそれで、威厳を示した気になっている。
「どうしましょう。姉様。私、どうしたらいいんでしょう」
「泣かない。泣かないの。あんたは何も、悪くないの」
 抱き寄せて背中を撫でてもしばらくの間、小鈴の震えは止まらなかった。
「図々しい恩知らずだよ。まったく」
 花里はその日のうちに見つからず、女将は煙管をふかしながらぼやいていた。
「上客が付いてくれる器量でもなかったくせに、こしらえて、ふくらんだ借金もそのままでさ。どこに逃げようといずれ罰が当たるに違いないよ」
 それこそ罰ででもあるかのように、女将の居室に集められていた娼妓たちは、皆余計な口は利かぬよう取り澄ましながら、密かに目配せを交わし合っていた。
 格も年数も上になる静葉は、花里とそれほど打ち解けて語り合えるような機会も無かったが、見ているだけで心持ちがほっとほぐれるような、やわらかな笑みを持つ女性であった事は覚えていた。
 そしてその笑みが、どこか遠くの小さな家で、ただ一人の男性にだけ向けられている様を思い浮かべて涙が出た。それはいかにもあたたかく、同時に静葉の胸を痛いほどに刺し貫く空想だったからだ。
 目を拭い溜め息で散らすと静葉はただ祈った。花里が見つからない事を。この先も彼女に罰など当たらない事を。そもそも罪として数えられもしない事を。
 その夜の田嶋屋はどの部屋も、静かだった。店中が同じ祈りを潜ませているように感じられた。

 夏に入ると手入れ業務は、一気に件数を減らすものの、事案が存在しないわけではない。
 夏なので外で肌身を晒したとて凍えないので、街娼たちはその辺りの川岸やら路地裏やら、木陰なんかにゴザを広げて済ませてしまう。とても一つ一つを追いかけて、取り締まれるような数ではない。
 そして手入れ業務が減るからと言って、密偵たちはその分を、遊ばせてもらえるわけでは勿論ない。それならそれで当たらさせられる業務があって、負けず劣らず猥雑だ。もしかすると手入れ以上に苦痛かもしれないが、手入れの方がまだマシだ、とも言い切れないし思えない。
 日中を浅草の賑わいにでも触れていなければ、身も心も隅々までもが腐り切りそうだ。とは言え田添がそばにいるのだが、意外でもないし屋台で買った串団子を食べながらの色味は、はしゃぎ回っている。
(おいしいよっ。これすっごく甘くておいしいよっ)
 と楠原にも二本入りの一本を差し向けてくるのだが、
「俺は良いよ」
 と言ってやると言葉だけは「ん」程度だが感激している。
(いいのっ? いいの。うれしい。ありがとー! だけど)
「もらってくれ。俺にはきっと多過ぎる」
 スッ、と消えた色味を見て、すげぇ、と苦笑しながら受け取った。好きな物をほどほどのところでやめ切れるなんて、楠原には相当に難しい事だけれど、田添はそうせざるを得ない。
 楠原が食べている間田添は目を逸らし、もう一本の団子などここには存在しないものと、自分に言い聞かせて気を落ち着けていたが、顔を向けた先で目にしたものに眉をひそめたので、楠原も、田添の肩越しに覗き込んだ。
 橋のたもとに広げられた、所々ワラも抜けたような古いムシロに、子供、というよりは少女が一人、座り込んでいる。垢にまみれてボサボサになった頭に浅黒く色付いた肌を、ポリポリと掻きながら、いかにも物乞いらしい風情だが通り過ぎる人々を、特に男を値踏みする目つきに、時折の首筋や胸元のはだけ具合は、何なら身でも売ってやる意思がある事を示していた。
 とりわけ髪の長さが、顎の辺りで切り散らした短髪で、人目を引く。後の世では考えられない事だがこの時代、女性が襟足に白い細首を、見せ付けたままでいる事自体が非常識だ。扇情的であり無用な情欲を掻き立てると、警官が難癖をつけてはいつでもしょっ引ける、条例違反にもなっていた。
「春駒、だな」
「知っているのか?」
「ああ。姉さんが前に話してた」
 ちょうど団子も食べ終えたので、楠原は通りの対面を、あえて春駒には気を向けないように歩き出した。田添も不興げな面持ちでついて来る。
「俺は、聞かされていない」
「俺だって今ここで見かけるたぁ思ってねぇし」
 春駒の方では顔を上げ、対面を行く赤茶色の髪に気を留めた様子であるのに、気付いた田添が振り向いた。すると明らかに田添と目線を合わせて、ニヤついてくる。
「まぁだガキじゃねぇか。なぁ」
「年齢などどうでもいい! 淫売は淫売だ」
 怒りに任せている様子で、楠原の隣もすり抜けて田添は、ずんずん先へと進んで行く。春駒の姿が完全に見えなくなってくれる辺りまで。
「人の、腐肉にたかるウジ虫だ! 淫売の売は黴菌の黴にでも、改めてしまえばいい!」
「田添ぇ」
 呑気な声を上げられて、田添はキッと鋭くした目線を向けたが、 
「食ってく?」
 と楠原が指差した先の、「氷」の看板を見て肩を下ろした。

 屋根の下に入り卓に差し向かいで座って、分厚いガラスの皿に乗ったそれぞれのかき氷にさじを入れる。
「暑いからな。頭に血が上って自分でも、ワケ分からねぇ事口走るんだ」
「すまない」
 と田添は珍しく神妙にしている。
 春駒を見て随分と動揺した様子だが、怒りに哀しみに呆れに憎しみと、色味が複雑に絡まり合い固くもつれた感じで読み解けない。とは言え楠原も似たような気分ではあるが。
「だけど、夏休みあるってぇのは有難いな。『学生のうち』だけだぜそんなの」
 本来の学生ではない事を言外に滲ませた言い方に、田添も気付きながら目を上げる。 
「俺は、寮に残る気でいたんだが」
「へ? 実家とかお前、帰らないの?」
 もちろん密偵であっても家があり親がいる、者が多く、密偵はそれと気取られないためにも、他の学生と同様の行動をする事を、推奨されている。
「どうせ誰かは居残って、寮棟を管理していなければならん。他の寮生の方が、よっぽど郷里などに帰りたがっている様子だったからな」
 普段から着物に持ち物の質も良く、今の養父の下では暮らし向きに不自由していないだろう田添は、真っ先に帰省組に入るものと楠原は予想していたのだが、
「帰ったところで俺は、折り合いが悪い。幸い寮中に知られている通りな」
 田添の顔にはいつも通り、言葉に即した色味しか乗っていない。
「そっか……」
「お前は、どうするんだ」
「俺も、帰りゃあしねぇけど……」
 楠原の下宿では何せ、「親御さん達に元気な顔見せて来な」と女将自ら笑顔で送り出してくれるので、逆らえる気がしない。
「せっかくだからちょっと、遠出でもしようかなって」
 珍しく心から楽しみみたいな笑顔を、楠原が浮かべたので、
「好きにすれば良い」
 と田添も珍しく微笑んだ。
「しかし念のために把握しておきたい。何処へ行くつもりだ?」
 それには口の端を引き上げてのにんまりした笑みに変わった。
「内緒」
「ならいい」
 そしてお互いかき氷の残りに専念した。


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