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落合陽一氏の「ここはNGのない劇場であると.」そんな空間が生まれない世界は、淋しくて・・・。
ヌル庵のステートメントが好きです。
noteにも書いてみました。
今日は冒頭の記事の中で、落合さんが話されたことの中から、私が「本当にそうして欲しい」と思ったことを書いてみたいと。
落合:お茶事に駄洒落はつきものですから。遠山さんのために寺山修司の戯曲著作も置いておきましたよ。
鈴木:『観客席』……からの、つまり「舞台裏」。
落合:そうですね。さらに内容を汲むと、ここはNGのない劇場であると。
「ヌル庵」で落合さんが何を表現しているのかは、この記事を読んで頂くとして、私が書いてみたいのは、「NGのない劇場」とは?
「表現者の表現」において、NGがないことの重要性とは?・・・みたいなこと。
最近は、表現者に対してさえ、NGが出されることが少なくないようなのですが・・・。
ここで「還暦過ぎオバサン」が過去を振り返ってみて覚えているのは、今なら普通にTVなどのCMの片隅に「これはCMとしての演出です」みたいなことがわざわざ表現されていますよね。
私の世代の人なら解るはずですけど、こういうのが始まったのはいつ頃だったのでしょうか。
わたし自身、このCMへの表現が始まったとき、「なんでそんな当たり前のことを書かなくちゃいけないの?バカみたい。」と思ったのですが・・・。
いや、私世代の人は、そう思った人が多数だったと思ってるのですが、違うのかなぁ。
多分同じころ、電化製品の取説が、アメリカでは「そんなことまで書いてんの?」みたいなことが話題になったことがあって、みんな少々「大変な社会だね、アメリカって」と思っていたはず。そんな雰囲気だった。
そして現在の日本。
一昔前に、「そんなことまで書かなくても」と思った人は、今どう思ってるのだろうということ。
ちなみに私は、今でも違和感を覚えるし、主人も同じみたい。
いや、ホント知りたい。今の日本人の「内心の常識の感覚」ってどんな感じ?
・・・で、落合さんの「ここはNGのない劇場であると」という表現。
これを今、日本ではどのくらいの人がこの「文脈」をどう理解しているのかということを私は知りたい。
時代の「表現者」が、自分の命がけの表現を込めるとき、その表現を理解してくれる人だけではなく、関心がなかったり、意見が違う人がいるのは当然のこと。
ただ、その表現には大切な意味があるから「表現」しているもの。
その時点で解らないという人は、「そのまま」自分の感覚で受け止めればいいだけ。
「好き」や「嫌い」は当然自由。
でも「NG」で消し去ろうとすることには強い疑問を感じる。
この世界は「解らないもの」だらけ。
対話は必要。
むしろ私は「ひたすら対話」してみたい(笑)。
そして落合さんは、「ここはNGのない劇場」と言ってます。
「劇場」・・・ある一部の「考え抜かれて創造された空間」。
見たい人が見て,感じて、考えて、空想する空間・・・。
そんな「空間」がこの世界の「あちらこちら」に、時々でも生まれなければ、人はどうやって他人と共感しながら繋がることが出来るのでしょう。
そんな空間が無くては、淋しくて生きていけない。
・・・じゃなくて、生きる気力が湧かない!!!(笑)
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