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人工知能研究者の三宅陽一郎氏の「西洋的AIと東洋的AI」を読みながら考えました。世界の多様な「文化・歴史」を、お互いに尊重できる「共通の物語」が欲しい。

最近、西洋と東洋の「文化・哲学の違い」ということを、いくつかの本を読みながら感じています。
30歳台の頃、西洋哲学の入門書みたいなのを読んだときの、なんだかピンとこない感じ。(私、還暦です)

でも、AIの時代、この東洋哲学を西洋と比べたときの違いを読むにつれ、「そういうことだよ!」と思うことがいろいろとあります。

この文章もそんなひとつ。

というのも、当時の人工知能の主流は知識主義、すなわち知識を集約的に一箇所に集めて論理によって問題を解く「セントラルドグマ」的AIが普通だったからです。

それ以前に哲学界でも同様のことは起こっていて、身体から具象的に哲学を構築するベルクソンは、抽象を重んじる記号主義者のラッセルに散々貶められる。つまり、「身体派」の人たちは、欧米ではいつも西欧の記号や観念・概念を中心に置いてきた主流派と「違う」存在だったわけです。

しかし日本はどちらかというと、その「違う」ほうが主流なんじゃないかと思うのです。
それは日本のアカデミズムというよりは、日本の文化においてです。

三宅陽一郎
東洋的AIの可能性より


西洋哲学の長い歴史から見れば、日本(東洋)の身体を深く観察し、周囲の環境と響き合っているような哲学は、とても「異質」に見えるようです。

でも私には、身体を伴わない「言語」での「抽象を重んじる記号主義」というのは、なんだか「言葉遊び」に聞こえるのです。

そう、初めて西洋哲学を読んだときの気持ちを思い出しました。
「言葉遊び」
言葉に自分の「身体・心」が伴っていない感じ。

もちろん私がそんな風に感じるのは、西洋の文化の中で生きてこなかったからでしょう。
でも、生物としての身体を持つ人間は、この環境の中に溶けて存在しています。
これは科学的な事実として現在は理解されている。
なので西洋の「まずは言葉ありき」というのは、最近の生物などの研究からしても、「ちょっと違う?」と思ってしまう。
様々な研究結果の解説を読んでいると、なおさらそう思うようになったのです。

AIを語るとき、人間以外の話をしないのはなぜでしょうか。西洋では、鳥や虫の話をするのは人工知能ではなく、人工生命の領域です。理性をもつ人間と、それ以外の生き物とのあいだには非常に深い断絶が存在するのが、いまの学問の姿です。それゆえAIという学問は記号を使いこなせるようにしようとする、それはつまり人間の理性を追求するということに重きを置かれてきたということ。

この世界観は、あらゆる生物と人間を地続きに考える日本人の感覚とは真っ向から対立しますけど、じつは日本人研究者たちはそこを誤魔化しながら取り組んでいるところがあると思います。
この誤魔化しているぶんのフラストレーションを、じつはさまざまなコンテンツで消化している、そういう考え方もできるのではないかと。

三宅陽一郎
東洋的AIの可能性より

この説明も、西洋と日本の違いが解りやすいです。
西洋は、とにかく人間とそれ以外の生命・自然との間に大きな断絶がある。
これは、最近いろいろと読んでいる中で、私が想像していた以上に西洋哲学が、私とは「この世界の捉え方」に違いがあることに驚いています。

今世界で起きていることは、一部の人たちが、自分たちが歴史の中で積み上げてきた哲学などを極端に解釈し、自分たちの利益を守るために利用しているように見えることです。


弱い立場の人たちを守るという意識からは遠いと感じる。

自分たち以外を排除している。

----そこで三宅さんは、仏教の考え方を援用されるわけですね。

仏教はきわめて特別な位置にあって、人間探求という側面を大きくもちます。
西洋哲学が知能モデルについてあまり議論しないのに対して、「なぜ人間は苦しまなければいけないのか」「時間というのは人間がつくりあげたストーリーで存在しない」とか、仏教は非常にプラクティカルに認識の起源を問うわけですよね。また、その答えも、とても構造的です。とくに大乗仏教の唯識論は、人間の認識モデルをレイヤー構造(多層構造)で捉えます。
識とはレイヤー(層)のことで、阿頼耶識、末那識、意識、五識、とレイヤーを重ねたマルチレイヤー構造として知能を捉えるのです。これはほとんどAIモデルの一種と同じです。

このように、仏教には人間探求のエレガントさや洗練された議論が存在しているし、知能を紐解くための三千年の知見が詰まっている。逆に仏教の教えを摂取せずにAIをつくろうとすることのほうが不自然かつ不思議です。

しかし残念なことに、西洋からすれば仏教はやはり学問ではないとみなされます。なぜなら、それは修行を積んだ人間だけが到達できる知見であって、誰もがアクセス可能なものではないからです。私たち産業側の人間もずっと無視してきた。それゆえに、またそれ以前から、仏教の知見を開発に引っ張ってくるだけの腕力もビジョンも鍛えられていないのが現状です。

士郎先生や押井先生のようなコンテンツの方は、興味さえあれば、境界を超えて平気でそういうものを引っ張ってきてしまえる。その力量に感嘆します。そして、そこにこそ、新しいAIのチャンスがある。

三宅陽一郎
東洋的AIの可能性より


難しいですね。世界のための共通認識。
世界の多様な文化・歴史をお互いに尊重できる「共通の物語」。

日本のアニメに期待します。


この本と合わせて読むと、今の世界に起きていることがよく解りました。

大好きな「ゴリラ博士」山極壽一氏です。


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