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「万葉の日本」と西洋哲学の違い。「なにものかについての意識」であるというより、「なにものかと共にある意識」 

今日のnoteは私の「気づきの備忘録」。
多分30代の頃読んだ「ソフィーの世界」という西洋哲学の入門書。
それを読んで感じたのは、「日本人とは違う世界観?」の表現に違和感というか、体感として理解が難しいと感じた理由が、この本を読んで納得したというお話。

全く違うと思いました。
西洋哲学と日本の古代の人たちの「世界」のと捉え方、感じ方、表現の仕方が。
そして今は、日本古来の感覚とは違う、西洋から来た哲学や文化、そして今の時代の複雑な社会のシステムの中で私たちの心は相当疲れている・・・・。

「柿本人麻呂に限らず万葉の歌人たちは、みな自然を見ることによって心をたしかめ、自らもそれに成り入った。彼らは、こぼれ落ちそうな心の不安を夜の白露を見ることで感じとった(16)。夜が暗くなれば心も暗くなり、沈んだ心を晴らしてくれるのもまた月の光であった(17)。抑えきれない愛の気持ちを激しい川の濁流になぞらえた(18)。愛する妻と寄り添って眠った美しい思い出をゆらゆらと海に揺られる玉藻と重ねた(19)。  万葉の歌人たちがこのように自然と心を重ねるとき、彼らは自然を意識の対象として捉えているのではない。

意識の対象として自然やモノを捉えるという考えは、西洋哲学では常に基本的な枠組みであり、現象学者フッサールは意識とは常に「なにものかについての意識」=「aboutness」であると言った。ただ意識そのものというものはありえず、眼の前の樹木についての意識であったり、悲しみについての意識であったりする。対象に向かわない意識は存在しない。それが現象学的な意識である。

『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる (文春e-book)』下西 風澄 著

しかし『万葉集』の歌に詠われている意識は「なにものかについての意識(consciousness about something)」であるというより、「なにものかと共にある意識(consciousness with something)」である。意識は単独で存在することはできず、常に自然と共に在ってはじめて可能になる。彼らが詠ったのは「白露についての意識」ではなく「白露と共にある意識」であり、「月についての意識ではなく「月と共にある意識」である。

『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる (文春e-book)』
下西 風澄 著


自然と交わることによってはじめて心を存在させた・・・。

私はこの万葉の歌人の意識の表現を読んで、とてもしっくりときました。
万葉の歌人たちの心は、「見えている自然に付託することで、意識が成立する?」ということなのでしょうか。
見えている自然と自分の意識の結びつき、交わりは、解きほどくことが不可能なほど絡まり合っているとも筆者は述べています。

ChatGPTに聞いてみます。
Q.
「自分の意識を周囲の自然物に付託する」という表現をした場合、それはどういうことだと思いますか。哲学者としてお答えください。

「自分の意識を周囲の自然物に付託する」という表現は哲学的に深い意味を持つと解釈されます。これを哲学者として考察すると、以下のような視点や解釈が考えられます。

1. **対象化**: 自分の内面的な経験や感情、考えを外部の物や現象に投影する行為を指します。例えば、荒れ狂う海を見て自分の感情の乱れを感じる、静かな森を通じて平静や調和を感じ取るなど、自分の内面を自然の中に見出すことができます。

2. **存在との一体感**: 個体としての存在を超えて、自分を宇宙や自然の一部として捉える思考です。多くの東洋哲学や宗教でこのような思考や経験が語られています。自分の意識を自然物に付託することで、この一体感や連帯感を感じ取ることができるかもしれません。

3. **超越的な探求**: 人間の意識や存在の限界を超えて、より大きな実在や真理に触れようとする探求です。自然物への付託を通じて、何か大きな宇宙の秩序や存在の意味を探求することが考えられます。

4. **逃避としての付託**: 人間の日常の生活や社会の中での葛藤、問題からの逃避として、自然や他のものへ意識を向けることもあるかもしれません。これは、一時的な安堵や癒しを求める行為として理解できます。

5. **反省と自己認識**: 自然物への意識の付託は、自己の内省や自己認識の手段としても機能します。自然の中で自己の存在や役割を問い直すことで、新しい自己認識や人生の方向性を見つけることが期待されます。

総じて、「自分の意識を周囲の自然物に付託する」という行為は、自己と宇宙や自然との関係性を深く考察するきっかけとなります。それにより、自己の存在や人生の意味についての理解を深めることができるかもしれません。

ChatGPT4


この本では、次の「古今和歌集」の時代では、歌人の意識が変化してきていることも述べられています。
そして現在の私たちはまた違ってきているとも思います。
でもやっぱり西洋哲学の「意識」のイメージとは違う。

いや、もしかしたら西洋の人たちも今は、日本的な意識の感覚に共感する人も多いのではとも最近は思います。
四国遍路に来られる海外の方は、日本文化に惹かれ、共感されているのが解ります。


冒頭のChatGPTの履歴は、『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』を読んでいて、私が感じた日本人の意識と西洋哲学にみる意識の違いを考えてみたくてChatGPTと会話したものです。

私がイメージしていることをかなり表現してくれています。
が、もちろん実際にこの本を読むことをお勧めします。
(ChatGPTに、日本の文学や古典の情報を聞いてもダメみたい😂)

「日本的なものごとの捉え方」については、西洋や日本以外の文化と比較してみないと理解できないものだと、この本を読んでいて思いました。


この中の最後にChatGPTが「まとめ」として解説してきたものを下記に引用します。

万葉集に見る歌人たちの意識と西洋哲学の「意識」の違いを考察する際、上記の引用文に示されている「についての意識」に対する「共にある意識」の概念は非常に示唆に富んでいます。以下にその違いをいくつか指摘します。

1. **主体と対象の関係**:
- 西洋哲学の多くでは、意識は対象を認識する主体として考えられることが一般的です(例: デカルトの「我思う、ゆえに我あり」)。この場合、主体と対象は明確に区分される。
- 一方、万葉の歌人たちの「共にある意識」は、主体と対象の区別があまり強調されず、むしろその境界が曖昧であることを示唆しています。

2. **自然との関係性**:
- 西洋哲学では、自然は認識・解釈の対象として捉えられることが多い。
- しかし、万葉の歌人たちは自然と一体となるような感覚を持っており、その感覚は歌を通して表現されています。自然は彼らにとって単なる対象ではなく、共存・共感する存在である。

3. **意識の存立**:
- 西洋哲学では、意識は個人の内面に存在するものとして捉えられることが多い。独立して考えられることも少なくありません。
- 万葉の歌人たちは、自然や外界との深いつながりなしには意識は完全ではない、あるいは存立しないといった感覚を持っていたと解釈できます。

4. **具体性と普遍性**:
- 西洋の哲学者たちは、普遍的な真理や理念を追求する傾向が強い。
- 一方、万葉の歌人たちは、具体的な情景や感情、瞬間的な体験を大切にし、それを歌として詠んでいます。このことから、彼らの意識は具体的な経験と深く結びついているといえるでしょう。

このような視点から、西洋哲学の「意識」と万葉歌人の意識は、その捉え方や価値観において大きな違いがあるといえます。しかし、どちらの文化も人間の存在や意識に対する深い洞察を持っており、それぞれの文脈での理解が重要です。

ChatGPT4

今週の伊藤穰一「変革への道」Podcast。


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