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「情けをかける」とは? 共感じゃダメ!

「情」という「人間の生命」としての一番強い感情、岡潔氏や小林よしのり氏がその感情を大切にして生きなければ、この世界の秩序自体が「おかしな方向」に向かってしまうのだとまで言う「本来」。

自分の中では納得してきました。

そこで考えていたのが「情けをかける」という言葉です。

「情けをかけられた」と思うとき、どのような気持ちになりますか。

よく時代小説などで「情けなどかけていらん!」というセリフありますよね。
「情けをかけられるぐらいなら死んだほうがましだ!」とか。

「情」という感情の本質を考えていると、この言葉も「情」の本質だと思えてきました。

そもそも私は、「情けをかけられた」と言って怒る武士などの気持ちがよく解っていませんでした。

でも「情」で動く、「情」で何かをするということは、その人にとってとても大きな感情移入を伴い、だからこそとても困難なことでもやってしまう、やりたいと本心で思ってしまうということ。
その「情」をかけられた相手は、そんな大変なことを相手に課してしまうことをちゃんと解っているから、「情けをかけられるぐらいなら死んだほうがましだ!」となるのかと。

相手に情けをかけられたとき、私はそのことに本当に感謝して、相手にちゃんと感謝の言葉を素直に言って、助けてもらうことが出来る人はある意味強い人だと思うのです。

でも「情」をかける人は、自分の大切な人生の時間や労力を使うのですから、「情」をかけ続ける訳にはいきません。
当然のことですよね。自分の人生を破壊してしまう。

こんな風に「情」について考えていると、「情」をかけて動ける人というのは、本当に体力も能力も必要なのかなぁ・・・とか。

いや、本当の気持ちをちゃんと伝えることも「情」だと思いたい。

・・・と、「情」について考えてきました。

ここでもう一つ考えたいのが「共感」という感情です。

この「共感」、小林よしのり氏の本を読み返していて、「情」との対比として出てくる感情です。

「情」ではダメなのか? 共感じゃダメだ!

強く言い放つこの意味は、本を読み返しながらとても重要なことを言っていることに気づきました。若いころ読んだときには理解できてなかった。

さきほどの「情」の話でもわかるように、プライドの高い「小説の中の武士」のような存在では、自分のために相手にそのような大変ことを課してしまうことは耐えられないことなのです。
だから情けをかけられたくない。

ところが、共感という感情は、自分の心の底からの感情というより、「今の社会では、これが正しいのかな?」みたいな、周囲を見回しての余計な情報などからの「社会の論理」が働いてしまっている感情だと思うようになりました。
(いや、もちろん素直な共感もありますよね。ここでは、「情」の対比としての「共感」の定義として)

先ほどの武士のように、相手の情けを受けるくらいなら死んだほうがましだと言える人は、ある意味相手の人生を尊重しているとも言えると思います。

でも、「情」をかけられたくないプライドが「共感」という言葉にすり替えて自分を正当化し、相手の大切な時間と労力を奪う場合があるのです。

難しいのは、共感を課してくる人も、課されようとしている人も、それに気づかない場合がある。
共感を迫る相手が、自分がやっていることを本当に素晴らしいことだと思っていたり、「社会に意味がある」と思っているから。

もっと困るのは、「共感」を意図的に使おうとする人間もいるということ。

この「押し付け共感」に巻き込まれない方法。

それは、やっぱり自分の「情」という感情に正直になることでしかないというのが、「還暦過ぎオバサン」の感想です。

とにかく自分の「かけがいのない人生!」
自分がやりたくないことを、やらなければいけないことが多い社会です。

なので、自分の楽しいと思うことを最優先して、「共感」レベルの感情でしかないものはしっかり断りましょう(笑)。

ただし、断るのにも「情」を持って。(難しいけど)
あっ、でも「押し付け共感」の人には、はっきりと断りましょうね。


・・・なんて文章書いてたら、こんな宇野常寛のnoteが。
このnote、多分同じようなことを言っている気がする😂。

感想をChatGPTに聞いてみました。

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