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解像度が高い=幸せ?山中りんたそ

 私は、料理の味の細やかな違いがよくわからない。

 例えば、コーヒー。毎日、豆を挽いてコーヒーを淹れているくらいにはこだわって飲んでいるつもりだが、そこからの解像度があまりにも粗い。淹れる前に豆を蒸らすと深みが出るとか、1グラムでも変わると味が変わるとか、熱湯の温度によって味が違うとか、ドリッパーが円錐か台形かで濃度感が変わるとか言われているが、試したものの正直違いがよくわからない。
 さらに、違いがわかったとしても、それを言語化するのが苦手である。コーヒーを例にしても、さすがに豆が変われば味の違いを感じることくらいはできる。が、それらの違いを他人にどうやって伝えれば良いのかがわからない。せいぜい、「苦い・酸っぱい・すっきり・美味しい」の程度を比較して伝えるので表現の限界がやってくる。「果物のようなフルーティーさ」を謳うコーヒーもあるが、それがどんな味なのか飲んでみてもイマイチピンとこない。

 他にも色の分類について、24年間生きてきて衝撃的な勘違いをしていたことが先日判明した。どうやら、ネイビーは紫色ではなく、青色らしい。これにはびっくりした。私はネイビーを”暗い紫色”と認識してこれまで生きてきた。例えば、私が在籍していた野球部のユニフォーム。高校時代のユニフォームは慶應義塾大学の野球部のものに似せているが、あれは紫色ではなかったのだ!だからなんだという話ではあるが、ここまで一般的な感覚と自分の感覚がずれていると不安になってくる。

 物事に対する解像度の粗い私からすると、高い人の繊細な感覚に憧れる。コーヒーの微妙な味の違いがわかる、色の違いによるデザインのこだわりに気付ける玄人になってみたい
ものである。しかし、それが幸せかどうかは別な感覚な気もする。

 コーヒーの味を500に分類できる人は、違いがわかってしまうが故に、好みの味に出会える可能性は1/500である。少しでも淹れる工程がいつもと変わってしまったり、違う豆になったら、好みとは違うことに気付いてしまう。しかし、私はコーヒーをせいぜい10にしか分類できない。それによって、1/10の確率で好みの一杯に出会うことができる。少し淹れ方が違っても、問題なし。豆が変わったって似ていればOK。

 そう考えれば、解像度が粗いのは趣がないが悪くはない。ものはいいよう、考えよう。

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