「バールのようなもの」


 先日、朝日新聞(2021年2月24日夕刊6面)で、久しぶりに標記の表現に出合いました。須藤龍也編集委員の筆で、エモテットという「最恐」のPCウイルスが、欧米8カ国の捜査当局が連携した作戦で壊滅したという記事でした。作戦の一部映像がユーチューブで公開され、記事ではその映像を、ウクライナの捜査官がアパートに突入して、〈バールのようなもので扉をこじ開けると(以下略)〉と活写していました。

 バール。英語のbarのことですが、日本語では、金テコのことを指します。小さいものだと釘抜きのL字型の棒、大きいものだとマンホールの開閉用とか、家屋などの解体用とかいろいろです。英語ではbarだけだとただの「棒」になってしまうので、pry barと言います。pryは「こじ開ける」という意味ですから、そのままですね。こじ開けるために、棒の先がひらべったくなったりしています。

 ちょい脱線。これに似た英語の日本語化は、ミシンやアイロンがありますよね。ミシンはmachineから、アイロンはironから来ていますが、そのまま訳し戻すとただの機械、鉄になってしまいます。もともとは sewing machine、clothes ironでした。でも、アイロンは英語でも日常はironだけで伝わるようです。「アイロンをかける」という動詞にもなっています。

 で、バールに戻りますが、かつて事件記事で「バールのようなもので後頭部を殴られた傷が致命傷となった」などとクリシェ(定型句、慣用句、常套句)としてよく使われました。意味するところは、「凶器は金属製などの硬い棒状であるようだ。バールかもしれないし、バールじゃないかもしれない。まだ、凶器が発見されていないのでわからない」ということの示唆でしょう。


 この場合、さらなる含意として「みんなバールなら知っているよね」という共通認識があるように思えます。あまり知られていないブツなら例示には不適当でしょうから。

 でも、ホントにみんな「バール」を知っているのでしょうか?

 私が育った田舎の実家には大工箱(工具箱)があって、ノコギリや金づち、ペンチ、使いあまったネジや釘、ハンダごてなどとともにバールも収まっていました。よその家庭がどうだか知りませんが、一般家庭でもちょっとした工具箱が備わっているのは、当時(約半世紀前)はふつうのことだと思っていました。


 妻に「バールってわかる?」尋ねたら、手ぶりでL字を形作りながら「こんな形の、釘抜き」と即答。さすが昭和世代です。

 でも、今の人はどうなんでしょう。ホームセンターやIKEAなどで工具セットを安く売っている時勢ですから、「ひとつ持っておいてもいいか」と買い求める人は多いでしょうが、バールは入ってないような気がします。

 

 それで新聞記事でも「バールのようなもの」という表現を見なくなったんじゃないかなあ。


 ここまで書いてネットを散策すると、「バールのようなもの」という表現にひっかかった人の書き込みがけっこう多いことに気が付きました。また、言葉遊びの天才清水義範さんには、そのまま『バールのようなもの』というタイトルの作品があるようです。その派生として、立川志の輔師匠が新作落語にもしているようです。知らんかった。

 こないだのタイガー・ウッズが交通事故で重傷を負ったテレビニュースでは、車中に閉じ込められたウッズを救出するために〈バールやおのでこじ開けて〉と言っていました。

 さて、冒頭の記事に戻って、わたしもウクライナ捜査官の突入をユーチューブで見てみました。

 なんだ、バールのようなものではなくて、バールそのものじゃないか。須藤記者、バールを知らない世代かも。


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