見出し画像

娘のための世界史3 インターコンチネント史1

インターコンチネント史

 「インターコンチネント」というのは私の造語です。ユーラシア大陸という言葉がありますが、欧州のユーロとアジアをくっつけた言葉です。その両大陸の交流史という意味で造語しました。ありていに言って、中央アジアや西アジア辺りの歴史になりますが、けっこう苦手な分野なんです。ふぅ。

【紙の伝播】

 時系列を無視して、まず751年のタラス河畔の戦いから見ていきましょう。
 場所は現在のキルギス共和国。交戦勢力は、西軍がアッバース朝イスラム帝国軍、東軍が唐軍です。ともに拡張主義の両者がぶつかったわけですが、結果は唐の大敗。唐軍の紙職人が西軍の捕虜となって、製紙技術が西方に伝わったとされています。

 紙そのものは、1-2世紀の後漢の時代に実用的な製法が確立されたようです。この時代、ヨーロッパはパクス・ロマーナの時代でした。ローマの軍事的成功は命令の文書化だなどと言われたり、あるいは同時代のアレキサンドリアの大図書館などが有名ですが、それらはすべて「紙」ではなかったのです。パピルスか羊皮紙が使われていました。第二次大戦後に発見された有名な死海文書は、ほぼ同時代の旧約聖書の写本ですが、おおむね羊皮紙が使われていました。

【トゥール・ポワティエ間の戦い】

 では、タラス戦役の時代のヨーロッパは、というと、中世の暗黒時代。西ローマ帝国は崩壊し、蛮族ゲルマン人が戦乱に明け暮れる中、民衆が希望を見出すためのキリスト教も、魂の救済はあの世でということでという始末。守旧的な教会権力は古典時代(ギリシャ・ローマ)のような自由な発想を認めず、産業発展は望めませんでいた。ギリシャ・ローマの遺産を大いに活用したイスラム世界と大きな隔たりができていたのです。

 そんな時代、アッバース朝の前のイスラム朝廷軍の一派は、イベリア半島を突破し、ピレネー山脈を越えて今の南フランス地域まで進軍します。迎え撃つキリスト教徒フランク軍はかろうじてイスラム軍をピレネー以南に押し戻します。それで後世の歴史家ギボンはフランク軍の総大将であった宮宰カール・マルテルを「キリスト教ヨーロッパの救世主」とする一方、SF作家のアーサー・C・クラークは「もしイスラムが勝っていたら暗黒の中世が訪れず、産業革命は1000年早まっていただろう」と述べています。


【千一夜物語】

 タラス戦役は、アッバース朝が勃興した直後のことですが、その前のウマイヤ朝は100年前、ゾロアスター教を国教とするササン朝ペルシャを滅ぼしています。

 ペルシャは、アレキサンダー大王に滅ぼされるまでのアケメネス朝、その後のアルサケス朝(パルティア)、そしてササン朝と、現代のイラン領域を超えた地域の大国でしたから、このササン朝を滅ぼしたことは、開教まもないイスラム教の聖戦にとって大きな一歩となりました。

 そのササン朝の遺産のひとつが千一夜物語です。アッバース朝の都バグダッドで、ササン朝時代の話として成立しました。

 有名なアリババやシンドバッドの物語は、19世紀の帝国主義時代の西洋人が原典にはない話を加えたものですが、往時のイスラム商人はシンドバッドの冒険さながら、アフリカやインドのインド洋沿岸へ貿易を拡大させていきます。それはもちろん、陸のシルクロードでも同じでした。また、商人とともにイスラム教も徐々に広がっていきました。

 なお、アッバース朝の支配下となったイランの地では、すぐあとに再びペルシャ人によるブワイフ朝が興ります。主流のスンニ派ではなくシーア派を奉じ、この両派の確執は今に至っているのです。

【トルコって何?】

 トルコと言えば今は、イスタンブールを首都として小アジア(アナトリア)が主要部分のトルコ共和国を思い浮かべますよね。たぶん日本人は、見ただけでは今のトルコ人とギリシャ人の区別をつけることができないと思いますが、もともと、トルコ系の出自はモンゴル平原からアルタイ山脈辺りで、当然、形質的にはモンゴロイドだったはずです。学術的にはチュルク族とも言います。

 どんどん西へ移動していき、11世紀頃には中央アジアでイスラム教スンニ派に改宗した遊牧民のセルジューク朝が興ります。西征してブワイフ朝を滅ぼし、アッバース朝にとってかわって小アジアやシリア・パレスチナに進出、東ローマ(ビザンチン帝国)と直接対決して勝利、これらの地を支配します。こうしてトルコ人が小アジアに現れたわけです。聖都エルサレムもセルジュークの支配下ですから、東ローマ皇帝の救援要請に応じた西欧からの十字軍とも戦うことになります。


【ジン・ジン・ジンギスカン】


 東方では次の大波が用意されていました。そう、ジンギスカンです。歴史ではチンギス・ハーンなどとも呼ばれます。元の名はテムジンです。モンゴルの諸部族をまとめあげたチンギスは13世紀初頭、まず東へと向かい、中国北部を支配していた女真人(満州族)の「金」を平らげ、返す刀で西方へ。お隣の西遼(カラキタイ)、次にセルジューク朝の後継の王朝が支配するアフガニスタン、イランを征服。その後は息子・孫世代が征服事業を引き継ぎ、13世紀後半には、東は中国全土や朝鮮半島を、西は小アジアや、現在のウクライナ辺りまで達しました。

 支配地は分割相続され、それぞれの地で独自の発展を遂げていくことになるんですが、モンゴルと他文化のの接触で有名なのが、ロシアの「タタールのくびき」ですね。


(とりあえず、ここまで)


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?