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浪漫特急 §1

§1-1 リンゴ園の誓い


 窓辺でうとうとしていると、ナッソーホールの時鐘が聞こえてきた。夢うつつで11まで数えた。

 「なんだって。もう十一時なのか」

 膝の上には、明日が締め切りの課題のために読もうと思っていた経済学の重たい教科書があった。まだ一ページも読めていない。

 開け放った窓からほのかな甘い香りが漂ってきた。向こうにある果樹園のリンゴの花に違いない。そうだな、もう五月なんだ。木々や草花たちが放つ新しい命の匂いをもっと吸い込もうと窓辺から身を乗り出した。キャンパス全体が煌々と光っていた。見上げると、天頂近くに完全に満ちるまであと一日か二日の明るい月が輝いていた。

 きれいだ。鐘の音も、花の香りも、月の光も。プリンストンの庭は生命力に満ち溢れている。主人公は大きく息を吸い込んだ。

 後ろを振り返ると、共同の大きな学習机で、四人のルームメイトたちが生気のない表情でそれぞれの課題に追われていた。アーバインだけは眠りこけていた。それから、自分の左手がつかんでいる重い教科書に目を落とした。

 こんな素敵な春の夜に、経済学なんて勉強している場合じゃないぞ。教科書を投げ捨てた。バサッと大きな音がした。全員が、寝ていたアーバインも目を覚まして、こっちを見た。

 「どうしたんだ、リチャード」アーバインが言った。
 「ちょっと、出かけてくる」主人公は答えた。
 「こんな夜中に? どこへ行くんだ」
 「カーネギー湖」
 「湖へ? 何しに行くんだ」
 「命だよ。五月の匂い。月の光」
 「何を言ってるんだ、リチャード。気は確かか」
 「じゃあな」

 湖に向かって速足で歩いた。ほんとうは駆け出したかった。ルームメイトのことを考えた。ジョンは卒業したらおやじさんが経営する百貨店に入るって言ってたな。ペンフィールドは証券マンになる。ラリーは研究医だ。アーバインもどこかに就職するんだろう。型にはめられた人生なんて、くそくらえだ。いつのまにか湖への下り坂を叫びながら駆けていた。

 湖は思ったとおり、青白い月光で煌めいていた。ときおり渡ってくるそよかぜが湖畔に立ち並ぶリンゴの木を揺らし、水面をさざめかせた。揺れる光を見ていると、心の奥からふつふつとさまざまな思いが沸きあがってきた。

 あいつらは、この美しさを満喫する自由と、自分の将来の安定とを同じ天秤に乗せて比べることさえできないんだ。僕は違うぞ。ああ、そうだ。僕はもう勉強なんてやめだ。
 そう決心したことで主人公は解放感を味わっていた。そしてまた、深呼吸した。何度目だろう。リンゴの花の香りが主人公の鼻をくすぐった。そのまま湖畔で眠ってしまった。

§1-2 オスカー・ワイルド

 翌日は授業をさぼり、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を持ってストーニーブルックの森で一日すごした。そして、心に響いたフレーズを何度も森に向かって唱えた。

 〈青春は、それが存在するうちに実現させよ〉

 「セイシュンワ~、ソレガソンザイスルウチニ~、ジツゲンサセヨ~」森がこだまで同意を示してくれた。


 〈退屈で凡庸な人物に付き合って黄金の日々を無駄にするなかれ〉

 「ナカレ~、ナカレ~」今度は虫たちが反復唱和してくれた。


 〈生きよ。あなたの中に備わった素晴らしい人生を生きよ。恐れることは何もない。青春の日々はとても短い、とてもね〉

 
 〈若さだけがこの世でたったひとつの価値なのだ〉


 暗唱しながら、子供のときに行ったサマーキャンプを思い出していた。ゴルフをしてテニスをして、六マイルの登山遠足に出かけ、そうそう、道に迷ったから六マイルにもなったんだっけ。ようやく帰り着いてからも、ボックスボールを六ゲーム、それからゴルフに出かけたな。キツネ狩りを観戦して、さらに歩き回ったものだ。

 一緒に遊んだ弟のウェズ。三歳下だったけれど自分よりも頑健で、スポーツとアウトドアが大好きだったウェズ。リウマチ熱による心筋梗塞でたった十五歳で死んでしまった。青春を謳歌する間もなく…。同じ十五歳で同じ病気を患った主人公は四カ月のサナトリウム療養で生還したのに。

 それから主人公は、子供のころから思い描いていた旅の候補地を指折り数えた。フジヤマ、マッターホルン、オリュンポス山、これら偉大な山々には必ず登るつもりでいた。バイロン卿が泳いだボスポラス海峡でも泳ぎたい。バタフライボートでナイル川を下りたい。シャリマーのそばの青ざめたカシミールの乙女に愛を語り、グラナダのジプシーのカスタネットに踊り、月明かりのタージ・マハルにひとり親しみ、ベンガルのジャングルでトラを狩り…。
 
 「僕が欲しいのは富とか名声とかじゃない。気ままな自由と浪漫なんだ」主人公はひとり決意して、ドリアン・グレイを閉じると、自分の奥底でなにかがしっかり固まる気配を自覚して満足した。


§1-3 自由の女神よ、いざさらば

 「なあ、アーバイン。就職なんてやめちまえよ」卒業式を直前にして主人公は切り出した。

 「そうしたいのはやまやまだが…」
 「まあ、これを聞いてみろよ」主人公はストーニーブルックの森で唱えたドリアン・グレイを読んで聞かせた。アーバインは首を振りながら聞いていた。

 「おやじがなあ…」
 「ワイルドはこうも書いているぞ」別の一節を読んだ。

 〈二十歳のとき、われらの中で打ち響いた歓喜の鼓動は、すぐに逓減してしまう。そしてわれらは退化するのだ。情熱の記憶を過剰に恐れることや、美しい魅力を生み出そうとする勇気を失ったことに苛まれる忌まわしき繰り人形へと〉

 「僕たちはもう、とうに二十歳を越えているんだ。ぼやぼやしていると時を失うぞ」

 アーバインは再度、首を振った。
 「ちくしょう。おやじに殴られてくればいいんだろ」

 主人公はにっこりうなずいた。
 
 
 卒業式が終わり、主人公たちは角帽を投げ捨てガウンを脱ぎ捨てるが早いか、オーバーオールの作業着に着替えてニューヨークに向かった。船員の人材ブローカーをしらみ潰しに訪ねて回った。しかし、プリンストンの卒業学位はなんの役にも立たなかった。

 「参ったな。こうなりゃ、奥の手を使うか」
 「奥の手って」アーバインが訊いた。
 「プリンストンで手に入れた知恵と力と勇気さ」

 ハドソン河口に停泊する貨物船の名前をメモして、所有会社を調べた。案の定、プリンストンのOBが社長を務める会社の船が見つかった。さらに運のいいことには、そのイプスウィッチ号の社長は、主人公の所属したフラタニティーΧΦ(カイ・ファイ)の同窓生だった。だから、社長室の扉をノックして握手をすれば、「この者たちを採用するように」と命じた船長宛ての手紙を入手することができた。

 それから、緑のフランネルシャツに着替えると、アーバインとお互いが船員らしくみえるような髪型に、つまり、プロの床屋の仕事ではないように妙ちくりんに刈って、船長のところへ押しかけた。
 「いいか、船乗りっぽくしゃべるんだぞ」
 「船乗りっぽくって、どんな感じだ」
 「潮っ気たっぷりってことだ」
 「…」アーバインはそれ以上何も言わなかった。


 「船長さん、自分たちは二十一年ぶりに暇をもらったんでさ。だもんで、デッキの仕事やらエンジンの面倒やらなんでもござれってわけで」本物の船乗りがどんなしゃべり方をするのかは知らない。

 「ほんとうかね」船長は疑って、ジロリと主人公たちをねめ回した。二人は二十三歳である。

 社長の手紙をいつ取り出そうか、どうしようかと落ち着かない気持ちで思案していると、船長は言った。
 「いいだろう。ここに署名してくれ」
 「アイ、サー」
 採用が決まった。

 こうして七月の朝、われらがリトル・イプスウィッチはハンブルクに向けてニューヨーク港を船出した。主人公は自由の女神に感謝を込めて手を振った。しかし、彼女は無視した。レイディ・リバティは平水夫など相手にしないのだ。


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