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第43夜 スローバラードの間奏(あいま)に

 君の寝言を確かに聞いた。眠れない夜、君の寝顔を見続けていた時だ。
「んんん…そんなんじゃないわ」…
確かにそう言った。でも何を否定したんだろう? 夢は無意識な思考だ。日頃鬱積したものに違いない。しかもムキになるようなこと。おそらく疑われてやましいことの核心をつかれてしまったようなことだろう。だとしたらきっと浮気を指摘されたのに違いない。彼女の寝顔は険しいままだ。網戸から入ってきたそよ風がレースのカーテンを揺らすと月光が壁の時計を一瞬照らした。時間は午前3時20分だ。
 こんなのは憶測でしかないが、誰とのどんな関係なのか考え出したらさらに眠れなくなった。しょうがないからベッドを出てバルコニーでタバコに火をつけた。そういえばこのところ彼女は髪をショートにして、見慣れないノースリーブを着て、ヨガなんかを始めた。あんなに出不精だったのになんだかんだであちこちに出掛けている、人が変わったみたいに。   
 気がつけば2本目のタバコの煙がぼんやり見える明るさになっていた。このバルコニーから民家たちの隙間に見える由比ヶ浜の水面はまだ闇に仕舞い込まれている。あと30分もすれば光明寺側からの陽を受けて煌めく姿を現すのだが、今はまだその鍵は閉まったままだ。バルコニーの手すりの凹みに溜まった朝露でタバコの火を消すと、不意に静かなメロディを口ずさんだ。スローなバラードの、あるフレーズのリフレインだが、その部分の歌詞は
"新たな光にあなたの影は消されていく 小さなともしびがいつだったか思い出せないから"
本当に忘れていた言葉がメロディとともに無意識に呼び起こされたのだ。
「あなた起きていたの?」
声をかけられるまで彼女がいつの間にかバルコニーの隣に立っていたのに気がつかなかった。その表情はさして憂鬱そうなものではなく、むしろ晴れ晴れした感じだ。
「寝言を言ってだけど、悪夢でも見たの?」
「ううん。とても幸せな夢だったわ。でも覚えてはいない」
私は"幸せ"の意味を想像しながら、今度はふんふんと鼻歌を続けた。
「何かいいことがあったの? あなたが鼻歌を歌うなんて珍しくて。でも少し暗いメロディね」
「そうかな。遠い日のともしびを思い出そうとしていただけだよ」
「ともしび…?」
水面はいつしか煌めきに変わっていた。

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