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第42夜 谷戸の行間

「あらまあ、可愛らしいおぼっちゃんね。どこ行くの?」
うちの子は女の子なんですという間もなく、
「ここいら辺は午前中は山の影になるから、歩くなら昼過ぎがいいよ。またおいで」
昨日読んだ雑誌の鎌倉特集に触発され、思い立って娘と朝イチに鎌倉に来た。記事で紅葉を勧めていた海蔵寺へ行こうと扇が谷を散歩してたら玄関先を掃いていたおばさんが声を掛けてきた。地元の人と触れ合えたのはいいが、あれよあれよという間に仕切られて、今は駅の西口の御成商店街を歩いている。あのおばさんのノリは、朝ドラでみた大阪のおばちゃんだ。悪気はないんだろうが慣れのない強烈さがある。まあどこも一緒なんだなと思いながら娘の手を引く。
 この商店街は観光客よりは地元の人を向いているようで、お土産的なものが見当たらない。ただし地元ならではの空気感は新鮮で悪く無い。量り売りの紹興酒を売る酒屋、色とりどりのサンダルを売る荒物屋、油揚げに取りかかりっきりの豆腐屋…、娘も自分の街とは違う空気を感じているようでキョロキョロしながら大人しく歩いている。
「ママお腹すいた」
気がつけばもうすぐ正午だ。せっかくの鎌倉だから陽だまりの縁側で磯部餅なんかが今日の気分だ。娘も、
「おもち、おもち!」
とその気になってしまっている。朝方のなにわのおばちゃんのあたりはそろそろ陽が当たり始めたんじゃないかと思い向かうことにする。先程とは違うルートで市役所寄りの小道を選び歩くと、なにわのおばちゃんの言う通り辺りはポカポカしている。
「ママ、あったかくて気持ちいいね」
娘はお腹を鳴らしつつもご機嫌そうだ。すると何の縁かおばちゃんが犬を散歩させながらやってきた。
「あら、さっきの。ちゃんと陽が当たってきたでしょ。ところであなたたちどこに向かってるの?」
「海蔵寺です。でもこの子がお腹が空いたと言うのでその前にお昼ご飯を食べたいのですが、どこか縁側で磯部餅食べられるようなところご存知ないですか?」
「ぼっちゃんお腹空いたの。そうねえ、お餅じゃないけど、焼きおにぎりが美味しいお店はあるわよ。ここの人はね、昨年ご主人を亡くされたんだけど、実家の新潟からコシヒカリを取り寄せてるからご飯が美味しいのよ。上京して東京の大学で家政学科にいた時におにぎりの論文書いたそうで、いちいちこだわりがあるの。しかもね雑誌なんかの取材は受けないからあんまり知られてないのね。そんなんだから…」
「ママ、お腹すいた」
「あらまあ、お嬢ちゃんだったの、話が長くなっちゃってごめんね」
「いえいえ。せっかくだからそのお店に行ってみます。ありがとうございました」
 聞いた通り英勝寺から線路沿いに歩き海蔵寺とは反対側に線路をくぐる形で進むと雑誌にも出ていた岩船地蔵堂が現れる。そこを亀が谷坂に向かって広がる谷戸方面に行った左の小道の角に『おにぎり 南雲』という小さな立て看板が小石で支えられるように足元にひっそり存在している。
「ママ、おにぎりって書いてあるよ」
「そうね、ここみたいね。お腹空いたから早く行ってみよ」
湯気と香りで場所はすぐにわかった。長年の風雨でウェザードされた銀色と言ってもいい杉屏の引き戸を開けると、陽が燦々と広がる庭と手入れの行き届いた古屋が現れた。
「ごめんください」
しばらくして年配の女性の声がした。
「いらっしゃっしゃいませ。今手が離せないから中にお入りになって」
この方が新潟出身の未亡人の奥様なのだろう。まったく、雑誌にも載っていないのに出身地まで知っているなんて。
「ごめんなさいね。私ひとりなものだからなかなか火から離れられなくて」
娘は奥のちゃぶ台で食べているお客さんのを食べたいということで、四つのおにぎりが乗ったお盆をひとつお願いした。
 ここから台所がよく見える。炊き上がった羽釜の蓋を開けると湯気が盛大に上がっている。一拍おいて湯気が少し落ち着いたところで握り始めた。形を扁平の球にすることにこだわっているようだ。きっとこの一連の流れにこだわることが焼き上がった後のおにぎりの中のしっとりさを左右するのだろう。しばらくして七輪に乗せられたおにぎりから醤油の凝縮された薫香、次にはねぎ味噌の爽香、さらに砂糖醤油の甘香が漂い食欲を誘う。せっかくだから座布団が置かれた縁台に移動し腰掛けると、しばらくして奥様がお盆を持ってきた。ほうじ茶と楊枝の刺さったぬか漬けも乗っていた。
 帰宅後もう一度雑誌を眺めていたら、鎌倉特集の最後のページにある扇ヶ谷エリアの地図ではおにぎり南雲は記名すらなく、家の存在だけを示すただの四角になっている。だがそこでは人知れず扁平球の穏やかな鎌倉の空気が胎動しているのだ。

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