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第11夜 ヨガマット夢想旅

 つぐみはヨガマットを持って材木座の浜に出た。8月でも早朝にはまだ海水浴客はおらず、居るのは遊泳時間外狙いのサーファーと犬の散歩のひとたちくらい。いつものようにマットに立つと遥か望む大島に向かいマントラを唱え、続いてゆったりと太陽礼拝から立位、座位とこなしていく。深い睡眠から目覚め浜へ向かう間に覚醒の状態になり、今アーサナ(ヨガのポーズ)を行うことで瞑想の状態に入った。夢を見ない深い睡眠はウパニシャッドでは至高の状態とされるのだが、瞑想はそれを上回る状態で、意識を働かせたまま心や潜在記憶を働かせないようにするのでアートマン(真の自我)に対峙できるのだ。一通りのアーサナを終えると、マットで座禅を組むのがつぐみのルーティンだ。右の足を左の腿の上にのせ、さらに左の足を右の腿の上にのせる。両手は親指の尖端が軽く触れるように組む。目を完全に閉じ切らずに薄めの半眼状態にし呼吸を整える。瞑想は絶頂へと向かっていく。

「何これ?写真じゃない!」
 一通り朝のヨガを済ませマットを取り払うと、来た時には気が付かなかったが、普通サイズの写真が砂に半分埋まって顔を出していた。何が写っているか分かりづらいほど傷んでいるが家族が並んだ記念撮影のようだ。背景は田舎の小さな駅、看板はよく見えないが山下駅と読める。「どこの山下駅だろ?」
また浜に捨てるのもバチが当たりそうだからタオルや水を入れてきたカゴに突っ込んでおいた。
 家で写真を見直すとビーチで太陽のもとでは反射して見えていなかったものが見えてきた。駅に隣接した暖簾を垂らした食堂。山の上の鉄塔。これらはどこの山下駅か絞り込むには十分な情報になった。つぐみはデスクトップPCでグーグルを開くと、”山下駅”でヒットした画像を見ていく。
「持って帰ってきちゃったんだからとにかくこれを持ち主に戻さなきゃいけないと思うんだけど、宮城、東京、兵庫、奈良、大阪…、まったくいくつあるのよ。それにしてもこの写真に写っている車は今じゃあ見かけない感じだなあ。色あせてるだけじゃなくて撮られた時代も古いんだとしたら駅舎も作り変えられている可能性が高いわね」
つぐみはこの捜索は簡単じゃないことを感じ、机のわきのベッドにゴロンと横になってため息をつく。
「写真の撮影地を突き止めるなんて簡単じゃないわね。あれ、待てよ…自分がgoogleの画像検索をしたということは、同じように調べる人がいないとも限らないわ!」
そう思ったつぐみは写真をなるべくきれいにスマホで撮ると、自身のSNSに片っ端からアップしてみた。
「ビーチでこんな写真を拾いました。お心当たりのある方は返信お待ちしてます!」
さっそくピンタレストにコメントが入った。
「こんなプライべートな写真を勝手にアップするなんて!」
確かにそうだった。突発的な考えのまま動いてしまったことを悔やんだ。
しばらくするとツイッターに「この駅はうちの隣町の山下駅ですがこの人は知りません。駅も相当前の建物です」という返事が来た。
人探しと思われたんだわ。それでもいいわ。間違ってないもの。でも隣町ってどこなのよ。
つぐみがそのコメントに返信すると「町名は教えられないけど、宮城県には山下駅は一つしかないと思う」と返ってきた。
やった、これで間違いない。
つぐみは駅宛に郵便で送ればいいと思ったが、こうなってくるとちょっとここへ行ってみたくなってきた。
常磐線かあ、まとまった時間ができたら行ってみようかな。
つぐみは写真をベッドサイドテーブルに置くとそのままうとうとした。

***

 菜の花畑を1両編成の車両が走る。照りのある茶色い車体で、各窓枠は太めに白でペイントしてあるので、どことなく北欧っぽい雰囲気の車両だ。小さな流れにかかる橋に差し掛かるとき、車両の大きさに似合わない大きな汽笛が鳴った。車両はノロノロと進み、やがて菜の花の中に消えていった。さっと吹いてきた風が菜の花をまるで春先の波のようにゆったりとなびかせ、ウェーブとなって景色に動的要素を与える。ひばりであろう、よく通る鳴き声が同じく景色に快美な効果を添える。その景色は実際のものなのか、映像なのか判断がつかない。確かにその風が私のほほをなでることはなかったし、菜の花の香りを風が運ぶこともない。きっと映像を見ているのだ。それにしてはモニターやスクリーンの宿命であるフレームがない。私は混乱し自分の手を目の前に持ってこようと思うが、それがなせない。そうしているうちに黄色一面の菜の花畑が、次第にその色を失っていき、やがて黒一面へと暗転した。がしばらくするとその黒は真っ黒ではなく、少しグレー寄りであることに気づき、さらに注意を向けると、小さな白い粒がそこに充満していることがわかる。それはいつかネットで見たジェイムズウェッブ宇宙望遠鏡のとらえた映像のようであるが、白い粒は星ではなく逆に肉眼ではおよそ見ることのできない素粒子であることが分かってきた。それを見ているというのはどういうことだろう?私はすでに死んでしまってどこか違う次元にいってしまったの?それは悲しい、とても悲しい、まだ死にたくない…

        ***

 閉じ切っていなかった遮光カーテンのすき間から強い朝日が刺し込み、つぐみのショートパンツから出た引き締まった無駄のないふとももを照らすと、その熱で目を覚ました。あれ、死んでなんかいない…。寝ぼけながらも今のが夢だったことに安堵する。

「つぐみ先生、そのポーズはキツくてなかなかできません!」
「あずさちゃん、そろそろポーズじゃなくてアーサナって言いましょうよ。ヨガってストレッチじゃないのよ。大地からプラーナを感じ素粒子を感じ宇宙を感じそして摂理を知るの。感じたプラーナを体の上へと通すのは素粒子の通電みたいなものよ。どう通電するか試行錯誤の末あのアクロバティックな動きになったわけ。形より先に感じることから始めてみて」
「わかりましたぁ…あ痛たたた…」
 毎朝こうして材木座ビーチのマット上で、宇宙においては一種異物といえる ”海” という創造物に向き合っている。大気に包まれたビオトープと言える地球の必須アイテムが海だ。寄せては返す波のメトロノーム、潮汐のルーティンワーク…。こうしてここでプラーナを感じてきたが今朝はいつもとは異質だ。あの夢は目の前の海が次元的に超越した真の姿を見せたものだった気がしてきた。海の上を人が歩くことはできないが素粒子は通電していて地球をぐるっと繋いでいるのだと。

「あの写真、落とし物なんかじゃなくて災害で流されたのがここまで漂着したものなんじゃないかな。いえ、それは物理的な現象なだけであって、何かの意思が素粒子のネットワークで私にメッセージを送ったものに違いない。ウパニシャッドだと夢は意識が内側に向かっている状態なのよね。考えたこともない景色を夢に見るってことは、あの写真には私の心を動かす何かがあるってことなんだわ。やっぱりなるべく早いうちにあそこに行ってみるしかないわね」

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