見出し画像

愛を犯す人々 番外 啓志郎

 西田の口から凪の名前が出てきた時、啓志郎は久しぶりに、本当のところ自分は、感情を表に出さないのではなく、出せないのだ、という感覚をおぼえた。そのせいで、西田にはできないことがこんなにも簡単にできる一方、実は、西田にはできる何かができないのではないか、という考えが、頭の片隅を駆け抜けた。

 そんなはずはない。

 西田にできて自分にできないことといえば、救いようのないほど愚かでいることくらいだ、と啓志郎は茶化して、暗くなりかけた気分を明るくしようとした。西田の煮え切らない、口はばったい説明を辛抱強く、細大漏らさず聞きながら、啓志郎は昨日の自分の行動のどこかが違っていたら、西田の筆下ろしを阻止できていたかもしれないと思い、凪が敢えて啓志郎の「友達」の西田に手を出したのは当てつけかもしれないと思い、…いや…それは、思い上がりか…?

 結局は、全てが、「かもしれない」のままなのだった。薬液臭い暗室で、セーフライトの暗さに苛々しながら、ずらりと吊るした写真紙を矯めつ眇めつしているような気分になって、啓志郎は、そんな自分の鬱屈とした苛立ち自体に、苛立ってもいた。

 昨日の夜は啓志郎にとっても、普段通りでない夜ではあったのだ。閑古鳥が常態化したバイト先の居酒屋に、日曜の夜だというのに突然団体客が入ってきた。事態に慣れないマスターと、客から飛ばされる注文の嵐に右往左往させられて、啓志郎が凪からの着信に気づいたのはその波が去って閉店後、やっと賄いにありついた時だった。折り返したが、凪は出なかった。悪い予感はしていた。帰り道に凪のアパートに寄ってみたが、電気は灯っていなかった。予感が確信になった。凪は、初めて寝る男とラブホテルにいるに違いなかった。啓志郎はそこでやっと、携帯を片手に持ったまま深夜の住宅街に立ち尽くしている、そんな阿呆丸出しの自分の姿を客観的に見るしかなくなり、結局、足早に帰ろうとする体に打ち克って、徒歩10分の道をぴったり徒歩10分かけて帰ったのだった。

 俺が二人目だって言ってたけど本当かなあ。嘘だよなぁ。でも本当のこと聞いてどうすんだって話じゃん。だからなんにも深掘りしなかった。

 西田の話はさっきから一向に核心に届かない。だいたい、凪と寝て、うっすらとでも自分が二人目だなどと考えられる精神状態がわからない。同じ高校から上京したのが西田だけだったうえ、それゆえに啓志郎の「遠距離恋愛」を知っている西田とは監視も兼ねてしぶしぶ一緒にいるが、その「友情」をそろそろ、自分は恥じるべきではなかろうか。啓志郎は溜め息を禁じえなかった。

 結論から言え。どうだったのそれで。

 うるせえ。お前みたいなずるむけのヤリチン野郎には言いづらいって分かるだろ、そこは分かれよ。俺さ、お前にはむしろ、前よりずっと劣等感抱いてる。何、この格差。埋まんねえよこの差は。お前とはもう友達やめたいもん。

 啓志郎は西田が女々しくいじっている紙ナプキンを奪って、西田の口に当てた。

 一旦、黙れ。いいか。そのウザい性格をいま、ただちに直すことにして、生まれ変わった気持ちでちゃちゃっと感想だけ言え。どうだったの。

 西田は目を伏せた。

 うーん…。…わかんない。

 最初はそんなものだ、と言ったものか、瞬間的には悩んだが、啓志郎は事情がわかるまでは、知らぬ顔を決め込むことにした。

 そうか。どこまでも残念な奴だな。

 おい。一応な?2回したよ?俺は。向こうはよさそうにしてたけど…俺さぁ…俺、なんであんな…。

 何したの。

 ちょ…いいか、何も言うなよ?絶対、なんの評価もしないで、俺のことただのバカだって、軽蔑してくれよ。

 啓志郎の苛立ちはとめどなく募る一方だった。もったいぶった奴だ。何を恐れる?その感じで、相手に軽蔑以外の感情が湧くと思っているのか?

 それは、聞くまでもなくわかってる。先に言ってやる。お前はバカだ。死んだほうがいい。

 ……。……。あのさ…2回目の後、初めてした感じ、どうだった?ってきかれてさ、俺、…ふーんこんなもんなんだって思った、って言っちゃったの、…ああああぁぁぁ!死にたい。俺さあ、思わず言って、それからテンパり過ぎて、もうなんも覚えてねえの。凪ちゃんのその時の顔思い出してさ、俺、駅から家まで走って帰って、布団かぶってちょっと泣いた。無理だ。俺なんであんなこと言ったのかな。俺は童貞の方が向いてんだ。俺、爆発して死にたい。

 啓志郎は西田の間の抜けた声を聞きながら、その黒目がちな、情けない犬のような、やはり間の抜けた顔面を見つめて、凪がこんな奴と何かを楽しめると思うに至った経緯を考えた。いや…西田は西田で凪にはわかりやすく言い寄っていたわけだから、それほど悪い気はしなかったのだろう。だが、男五人兄弟という少子化そっちのけの汗臭い家庭事情と、男子校下層モブの悲しいサガで、西田は大学デビュー後の女子評は悪くない癖に、女というもの全般に疎すぎる。凪にしてみれば、ちょっとした箸休めのつもりだったのかもしれないが…。

 啓志郎は、はっとした。

 帰ったって、その日のうちに帰ったのか?

 終電に乗れたのは凪ちゃんだけだよ。俺は三鷹で力尽きた。走って帰ってさらに力尽きて、泣いて完全に力尽きた。

 啓志郎はみぞおちの辺りが苦しくなるのを感じた。終電に乗って帰ったとしたら、なぜ電気が消えていた?凪は毎日、2時近くまで起きているはずだ。

 朝倉さんとは?今日会ったの。

 怖くて会ってないし、まず連絡入れてない。

 お前さ…。お前人間じゃねえわ。童貞だ。

 西田は汚らしく噛み潰したストローから口を離し、氷で薄まって泥水にしか見えないアイスコーヒーラテを、ガシャガシャ揺らした。

 もともと、好き好き言ってる俺に押し切られた感じだったし、昨日の夜、布団の中でさ、ちょっと我に返ったんだ、凪ちゃん、嫌いじゃないかもって言っただけで、俺のこと好きなんて一言も言ってない。…童貞に戻りたい。俺、もう凪ちゃんに会えない。今まで通りで、好き好き言ってニヤニヤされて、会えた方がよかった。だってさ、もうほぼほぼ一日経ってさ、向こうからだって、連絡ないもん。もう俺は凪ちゃんには何にもできないよ。

 啓志郎は浮かんでくる大量の疑問符を全て無視して、事実だけを見た。啓志郎には理解しかねる状況だが、阿呆を理解する必要はない、とりあえず西田が凪の視界から消えようとしていることを、歓迎している自分がいる。西田にはできればさらに、常々思ってはいることではあるが、何か問題でも起こして退学してほしい。

 まあ…できたんならお前はそれだけで結構、男だと思うよ。よくなかったんなら、お互いそれほど好きじゃなかったんだろ。

 そういうもん? わかんないけどさ、こういうのって、した時点で好きで、二人で育てていくものなんじゃないの?俺がバカ?

 いんや。お前の言ってることは、あながち真理を突いていないわけでもない。けど、お前がバカだ。そしてバカは、全てを駄目にする。バカじゃない俺なら朝倉さんとは高め合えるんじゃねーかと思って、だからこそ詳細を聞きたいんだけど。

 …。お前には、本妻も現地妻もいるだろ。お前の現地妻が凪ちゃんと同じクラスでほんとよかった、あーよかった。手出ししようがないもんなぁ。

 穴兄弟ぷふ。などとくだらないことを言っている西田を眺めながら、ああ、凪が真奈美と同じクラスでよかったさ、と、啓志郎は苦々しく回想した。凪を見た瞬間に当て馬に転じた真奈美が、真奈美本人にはつゆとも知れないその使命を全うできたのは、啓志郎には実は計算外だったのだ。正直なところ、直球で行くのは難しかった。その辺り、よしんば啓志郎の友達だというだけで西田がおこぼれに預かったとしても、一応は直球で行って思いを遂げた西田に対して、妙に羨ましく思っている自分がいて、啓志郎はそれもまた気にくわないのだった。

 西田と昨日そんなことがあったなら、啓志郎には今日連絡があるはずだ…と思った、まさにその瞬間に赤く飛び出たバッジをそれとなく確認して、啓志郎は内心、口角を緩め、いや待てよ、西田がもし何かの間違いでそれほどの間違いを犯さずに無難にこなしていたら、このバッジはなかったのかもしれない、とひとりごちた。虚しかったが、どこからどこまでの心理を指して虚しいと感じたのかが、自分でも分からない。バカを主症状とする西田菌に、感染したのかもしれなかった。どうもよくないな、また「かもしれない」か。

 とりあえず俺、自慢したい。俺は凪ちゃんの裸をこの目でしかと見た。胸が意外にあっただけでほんとう、感動した。しかも相当な美乳だった。あんなに細いのにFカップがきついらしい。

 知ってるよ。という苦い思いと、いや、それは生理前だけの話で、日頃はEのブラを着けていることをこいつは知らない、という情けない競争心。

 …滝本だ。

 啓志郎は額に手を当てた。今日、昼休みに真奈美を迎えに行った時、凪の隣にいた。スティグリッツの重たげなテキストを挟んで、二人は何かを書き込みながら、話していたが、あれは…。

 お前さ、聞きたいって言うから仮面を告白してるんだよ俺は。人でなし。人間のクズ。外道。俺は生協に行って、今日はもう帰るぞ。

 西田は、相変わらずどうでもいいことばかりを話している。啓志郎はもはや水と言っていいほど薄まったアイスコーヒーを握りしめたまま、バカはバカらしく帰ってオナッて寝ろバカ、反省して苦しめ。俺は一件メールしてから出るわ、と答えて、空いているほうの手を振った。

 振った手を下ろすと、バッジが出てからずっと掌で覆っていた携帯の画面が、生ぬるく、ぬめった感触を返した。


 


 …紅潮して、大きく上下していた露わな胸元が落ち着いてきた頃ようやく、凪はひらいて立てたままにしていた膝をぎこちなく合わせて、大儀そうに横向きになり、やっぱりシロちゃんは全然、安定感違うなぁ、と呟いた。

 ま、それなりに気持ち入ってるからね。

 啓志郎は不安に心臓が高鳴っている自分を律して、なるべく気持ちを入れずに呟き返した。

 なにそれシロちゃん気持ち悪い。

 え、そこで言い間違い?いま、「気持ち悪い」って言ってたよ、疲れてるね。…すっげアヘってたじゃん。自分見失ってたじゃん。「気持ちいい」の間違いでしょ。

 …。さぁね。気持ちいいのが、気持ち悪い。わかる?

 啓志郎は頭の中が真っ白になるのを感じた。凪の言葉の意味を考えるか、とりあえず何か言うか。啓志郎は二択の後者を取った。

 ま、ね。俺も実は。気持ちいいのが、気持ち悪い。かな。でもそれ主語変わってるよ?俺が気持ち悪いんじゃなくて、自分の気持ちが気持ち悪いんでしょ。

 凪は拗ねたような、つまらなさそうな表情をして、啓志郎の腋毛を摘んで引っ張った。

 あーあ。う、で、ま、く、ら。気が利かないよシロちゃん。

 …滝本でしょ?

 啓志郎は凪の小さな頭の下に腕を押し込むついでに、額に額を軽くぶつけた。

 凪は気まずそうな視線を啓志郎に向けた。

 あ。今日…。

 凪が口を噤むのは珍しくない。啓志郎はもう慣れていて、無言で凪を待つだけだ。

 うん…滝本のこと、…好きかもしんない。

 あっそ。よかったじゃんか。

 啓志郎は何気ない風でそれに応じたが、普段通りの答え方、普段通りの声音になるためにどうすればいいのか、凪の言葉の何を信じるべきか、これから何を言えばいいのか、頭の中は咄嗟に立てた計算式と、なかなか合わない答えで、埋め尽くされていた。

 で?応援してほしいの?阻止してほしいの?

 啓志郎は自分の声が震えていない確信が持てなかった。凪は、啓志郎が離しかけた腕を取って、もう一度自分の背中へ回した。

 わかんない。

 見上げた凪と、目が合った。また、沈黙が走った。長い沈黙になった。

 ずっと、味方でいてほしい…かな。わがまま?

 凪のまなざしには何の翳りもなかった。初めて凪を抱いた夜、お互いまだ探り探りの、ありきたりなセックスのあと、凪の虹彩が鳶色だということに気づいて、ちょうどこんな風に、没頭するように凪の双眸を見つめていたことを、啓志郎は懐かしく振り返った。もう二年も前のことなのか、それとも、まだ二年しか経っていないのか?…凪はどうして、啓志郎が首を横に振ることはないと思うのだろう。そして、どうして啓志郎は、そんな凪を裏切れずにいるのだろう?

 わがままだよ…。

 啓志郎は小さく声に出し、長すぎる睫毛が影を落としている凪の頬を、指の背で撫でて、額にキスをした。もう凪ちゃんに会えない、と落胆していたどこかのバカの横顔が、頭をよぎった。

 けど、まあ悪くないわがままだって言えるくらいには、凪には愛着あるよ。

 凪の瞳に、ほらね、という確信と安堵がちらりと光る。

 私が滝本のことずっと好きでも?私が、滝本のこと嫌いになっても?私のそういうのは、シロちゃんに関係ない?

 いまの距離感、俺は気に入ってるよ。相性いいし。

 だよね?よかった。

 でもさすがにさ、そんなことガツンと言われると…。

 何?

 嫉妬する。

 啓志郎は何かを言いかけた凪の唇を、なるべく激しいやり方で奪った。息ができなくなった凪は、満足げに、呻くような声を絞り出した。

 俺、らしくなく嫉妬してる。凪が悪いんだよ。そのつもりだったんでしょ?

 体を起こして上を取った啓志郎を、凪は微笑んで見つめた。

 うっそ、4回目だよ?

 滝本とうまくいかないといいけどね。だからって俺は凪と付き合ってあげれるわけじゃないし…?お互い身勝手なのは承知の上だけどさ、でもやっぱりオスとして許せないな。少なくとも今は。だから…。

 啓志郎は凪の両手首を頭の上で組ませ、そのか細い肘ごと、がっちりと掴み取って、凪の動きを封じた。

 マーキングしないとね?

 窒息させるようなキスに、凪はまた、満足げに喉を鳴らして悦んだ。

 絡まりきった現実の関係の、どこをどうほぐせば、凪は自分の隣であんな風に笑って見せてくれる?

 鎖骨を甘噛みすると、凪は、あ、痕残るのやだよ、と、掠れた声で囁いた。

 まさか、ちゃんと加減してるよ。

 消えなければいいのに、と思う自分を脇に押しやって、もう消え始めている噛み痕を舐めて、癒す。

 借りたらしいノートを胸に抱えて滝本に笑いかけていた凪の笑顔を、今日そうだったように、頭の中でも遠巻きに眺めたあと、啓志郎は踵を返し、経験と計算がひしめいて泳ぐ浅瀬を抜けて、凪の奥へ、沈んでいった。


今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。