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大人の領分③薫

  詢と一緒に最後の客を見送って、厨房へ戻ってきた槙野が、スタッフルームで本を読んで待っていた薫のところまできて、薫さん薫さん、と小声で呼びかけた。

  あのカップル、指輪のデザイン全然違いました。ダブルですよ。

  薫は眉をひそめ、唇に人差し指を当てる。

  なーんで。もう誰もいないのに。

  台風の日の小学生じゃないんだから。ああいう人たちが来るたびに色めき立って、バカみたい。人には人の事情があるの。槙野くんにはそういう、分かりやすいのしか見えてないだけだよ。つまんないことでガヤガヤしない。

  別に、ガヤってませんよ。でもなぁ。あの人たち、妙にすっきりしてたし、別々に終電の時間調べてたから、これからそれぞれの家に帰るでしょ。どんな顔して、旦那さんやお嫁さんに会うんすかね。いやー、大人って、狡いわー。

  槙野くんも、大人じゃない。すれ違う女の子からはもう、オジサンって呼ばれてるよ。大人はね、自分で思うよりずっと前から、大人なの。

  薫節ですねぇ。さすがは文学者。

  の、卵ね。やっとこさ翻訳家スタート切ったとこでもう、足踏みしてます。あーあ。

  違いが難しいなー。俺は、難しいのは苦手です。

  …マキノのほうが大人なのかもしれないよって、こと。

  店に入れた立て看板を、しゃがんで眺めていた詢が、立ち上がりながら口を挟んだ。

  じゃないかな。美味しそうに食べてくれてたよ。食べてる時に幸せなら、幸せだ。いいじゃないか、二人でここで飯を食って、帰る。ここにいるあいだは、俺は彼らに、あー美味い幸せ、って顔を、させてたいね。今日みたいに。

  苦いわー。俺って所詮、俺なんで、頑張っても結局空回って、あかりちゃんが他の誰かに絡まっちゃうかもしんないじゃないですか、それであかりちゃんがあんな幸せそうな顔してたら、俺はどうしたらいいんですかね。考えただけで内臓吐きそう。

  あかりちゃん、愛されてるね。

  薫は微笑んだ。

  まあ、そんな時にも、あかりちゃんにはあかりちゃんなりの、マキノとの幸せがあるとは思うけどね。

  言いながら、詢は袖をまくって、何かを調べはじめた。

  どうしたの?

  珍しく火傷しちゃったんすよね。バーナーって。ないなー。ヒヤッとしましたよ。

  うーんダメだ、思ったよりタトゥーに被ってるなぁ。綺麗に治るといいけど。

  薫は、詢の逞しい腕が、好きだ。人混みの中にいても光って見えるほど造形の整った、その肢体…聖句と象徴が巻きつくように刻まれた、精悍な、均整のとれた体…詢は、目に入れば必ず、薫をうっとりさせる。調理服を着た詢は、ただでさえ上背のある、大柄な体躯のその背筋を、獲物を狙う野生の動物のように伸ばしていて、キッチンの熱気で汗ばんで充実した横顔が、調理台の上を真剣に見つめている。それを見るたびに、薫は、詢というこの美しい生き物を射止めた自分は、いったいどんな魔法使いだったんだろうと、現実に起こったことなのに、信じられないような気持ちになる…。

  薫さんとのこと。兄貴に、話しちゃおうかなぁ。

  …薫は蘇った、敦の低く通る声を振り払うように、本を閉じた。結局、早めに来て、待っているあいだ読むふりをしていただけで、なにも読めなかった。冬の乾燥でかさかさする指先で、機械的にめくり続けたヘッセのレクラム版は、いまの薫にはただの、インクの染みが付いたの紙の束だった。でも…ふつうに、いつも通りに、しなければ…。

  大丈夫なの?  ひどい?

  ううん、ちょっと派手だけど、たまにあるから。これは病院行くほどじゃないかな。けど、明日薬局行って薬、買わなきゃ。

  そう…。

  薫は、詢を見つめた。敦はどうして、詢に似ているんだろう? 敦は髪を伸ばしているし、眼鏡を掛けている。体つきはたしかに同じで、とはいえ、みたところ、全然違うようなのに、詢と敦は、そっくりで…。

  ごめんごめん、楽しいんじゃないよ、愛おしいんだ。兄貴にさ、兄貴とのこと、薫さんに話しちゃおうかなぁ。って、言ったんだよね。二人とも本当、リアクションそっくりで、おひな様みたい。可愛い。

  敦はまだ、後背位で薫に入ったままだった。敦の下から抜け出ようとした薫の肩を敦は押さえて、ああ、なんか、心の声が漏れちゃったな。ちゃんと説明するから、いまはもうちょっと、楽しもうよ、ね、と、じりじりと薫を攻めた。今日はさ、俺にとっても、大事な記念日なんだよ…? ね。

  まさか電話が来るなんて、思っていなかったのだ。明日を休みにしたから、今日は普通に深夜まで、家で詢を待っているつもりで…薫は敦のアパートでシャワーを浴びてから一旦帰って、下着から鞄まで、全て替えていま、ここにいて、でも、心まで着替える余裕は、なかった。

  兄貴も、うちでシャワー浴びてくんだよね。

  こんな風に? 一緒に? と、尋ねかけた口を、薫は塞いで堪えたのだった。

  …バスルームに入ったとき、浴室が濡れていたのは、薫に会う前に敦がシャワーを浴びたんだろうと、思っていた…今日はランチもないのに、朝がたに仕込みだと言って出て行った、詢の背中…。

  無言で、薫は敦のアパートを後にした。

  これは罠だ、答えれば答えるほど囚われて、問いかければ問いかけるほど、絡め取られる。

  片付けが全部終わるまで、もう少し待ってね、と詢は、後ろの通りがかりに薫の頭を優しく撫でた。いつも通りのような、ぎこちないような。…だって、毎年のこの日は、ベッドで寝ている薫の横に静かに滑り込んで、それで終わりだったのに…?

  俺はフェアでいたいから、兄貴と俺が何をしてるかは言わないよ。でもね。…薫さんには満たせない、心の胃袋みたいなのが兄貴にはあって、俺はそこを、俺が薫さんにもらった気持ちで、いっぱいに満たしてあげてる。薫さんも、ほら、いい顔してるでしょう、いま? 兄貴と薫さんがいないと、俺はだめで。兄貴は、薫さんと俺がいないとだめで、薫さんは兄貴と俺がいないとだめで…ね、世の中って、うまくできてるよね。

  薫と詢の結婚生活は、詢の開店準備とともに始まって、開店準備に同調するように、すぐにぎくしゃくしはじめ、静かな時間がなくなって、時々交わす言葉もなんとなく、すれ違うようになった。別の世界で生きる薫には、詢の高揚や苛立ちを受け止めきれなかったのもあったし、薫はちょうど、捨てられなかった夢を追いなおして、商業翻訳から文芸翻訳に舵を切ったばかりだった。1作目の小説は、文壇の注目を集めることはなく、そのまま本の山に埋もれていき、同じ月に出た大学院の同級生の翻訳は、新進気鋭の翻訳家の新作として、雑誌で紹介されていた。読書の時間もないほどカレンダーを埋める、文学性のかけらもない、量ばかり多い仕事の、締切のマーク。薫はやり場のない無力感と嫉妬で、焦げ付いていた。エンジニアの敦が店のホームページを作りに家に来るようになったのは、その頃のことだ。詢の修行時代の写真や、整理されていないメニュー表を探して家をうろつく敦の姿に慣れ、よくわからない呪文をノートPCに叩き込んでいるらしい、その横顔が、詢そっくりに、ひどく美しいことに気づいたのも…その頃のことだった。

  徹夜明けで滲んだ視界、自分のついでで淹れたコーヒーを渡して隣に座り、ホームページの出来を一緒に見ていた。微妙なズレに気づいた敦がコードを見直して…敦と目が合って、なんとなく、ほんの軽い、ふんわりとコーヒーの匂いのするキスをした。したというより、泡のように、浮いて消えたという感じだった。

  薫さん、浮気したことないの…?

  敦の声はやけに落ち着いて聞こえた。

  …。あるわけないよ。あっても…言えないでしょう、そんなこと。

  ふーん、じゃあ、ばれないように、気をつけないとね。

  敦は詢そっくりの顔で、詢より少し低い声で、そう囁いて、優しげに微笑んで…薫の口角にもう一度、キスしたのだった。

  それからずっと、薫は敦と一緒に詢を見送るたびに、心のなかで叫んでいた、置いていかないで。一人にしないで。私を敦と二人きりにしないで。…これじゃまた、敦とセックスしてしまう、だから、…でも、どうして、気づいてくれないの?

  薫は詢と敦の仲がいいのを普通のことだと思っていたし、二人で服を買いに行ったり、詢が飲み明かして敦の家から朝帰りしたりしても、リフレッシュだと思っていた。でも…?

  …リフレッシュ? それは薫も…。

  夕陽を浴びながら動く敦の、微笑んだ口元が脳裏をよぎった。

  どうするの…? 言う?…何を? 二人で俺を食い物にしてるって、確認し合う…? でも、俺が嘘ついてたら、どうするの…?

  敦は薫の髪を編み込みながら、編み込みで半分見えるようになった薫の首筋にキスをして、鏡の中の薫に微笑みかけた。

  まあ…思い当たる節は、あるでしょ。兄貴はね、薫さんのこと、本当に好きで、でも、だからこそ、薫さんがあまりにも女だって思い知るたびに、悩んでた。俺はそれなりに、薫さんに嫉妬してたな。その頃はまだ、会ってもいないからね。飯、食いに行った日あったでしょ。俺はあの時に、ああこの人なら仕方ないや、って思ったし、薫さんのことも大好きだと思った。今度は兄貴に嫉妬したよ。兄貴は薫さんを幸せにできるんだから。…はじめは取り返しのつかないことをしてしまったって、柄にもなく悩んだけど、馴染んでくると、二人の笑顔なしに生きていけないと思い始めた。なにより…俺は気づいたんだよ、さっき言ったでしょう、「世の中って、うまくできてるよね」って。俺はきっと、いるべくしているんだって、思うようになった。二人のために俺がいる。ね、俺は二人を支えてて、そのお礼に俺は二人から、幸せな気持ちをもらってる。

  敦の話はいつも、ふわふわしているように見えて、意外なほど芯がある。急にこんな嘘を言うような人間でもないし、…そう…どうして、詢はそこまで信じ切った風に、薫と敦を二人きりにする…? 敦は詢に嘘をついていた。それは確かだ…けれどそれは、どんな嘘だった…?

  薫は、詢が性的に淡白なのは性格のせいだと思っていた。それに、詢は、あんなに美しいのだから…薫をこんなに大切にしてくれるのだから…そんなことくらいで、詢を諦められなかった。二人の間に優しい、親密な空気が流れるほど、二人のセックスは間遠になって…その間隙に滑り込んだ敦の饒舌なセックスに溺れるほど、時々訪れる詢の寡黙なセックスが、一層、薫には淡白で凶暴になった。薫は詢の性的な淡白さや荒々しさに静かに悩んではいて、だからこそ、詢にひどくよく似た、それでいて春風のように気まぐれに優しい敦が現れたとき、薫の、吹き溜まりで腐りかけた落ち葉のような欲望が、舞い上がって、散り散りになって、…詢とは全然違う人じゃないことに、薫は安心した気がして、詢を愛していることを確かめられたような気がして、…敦と、離れられなくなった。

  詢もそうだとしたら? 薫だって、敦と会っている間じゅう欲情しているわけではない。敦の柔らかい雰囲気や、心に埋もれて諦めていた部分をそっと、掘り起こすような愛情表現や、とらわれない軽やかな物言いが傍らにあることの、喜びを知らないわけではない、詢がもし…詢だってきっと、そんなふうに…どんなふうに?

  薫はきっと足りていない。けれど詢は…それでも、詢は、…それとも詢は本当は、別のどこかに、行きたいのだろうか…? 私は何を、自分を棚に上げて…。

  薫はぐちゃぐちゃになった思考にそっと蓋をした。考えなければいいと思った。でも、もう、敦の言葉を聞く前の自分がどうだったかは、はっきりとは思い出せなかった。


  槙野は急き立てるように二人をテーブルに座らせると、恭しく、花火の爆ぜる小さなホールケーキを置いた。

  シアワセハッピー、キネンビアニバーサリーです。どうせ二人とも忙しくて、なんの用意もしてなかったでしょ。はい知ってまーす。二人が自分ら、大事にできないんなら、せめて俺が大事にしなきゃですからね。

  槙野くん…。

  詢は無言だったが、照れ笑いをして、顎を撫でた。

  はい。5年ものの、ちっちゃいシャトーのワイン。ちなみに当たり年だった地方を選びました。明日は、だらだらしたいんじゃないかと、近所のカップル整体を予約済みです。これプリントアウト。

  槙野はワインの箱のリボンに差し込んだ封筒を、指でつついた。

  そんでどうせ畑の様子みに行っちゃうんでしょって思い、間に合うであろう18時から90分のコースです。キャンセルの時は言ってくださいね。あかりちゃんと俺で行きますから。

  すごい、槙野くん、やっぱりちゃんと、大人なんじゃん。

  槙野は手を後ろで組んで、居心地悪そうに、もぞもぞ重心を変えながら、あかりちゃんの入れ知恵かどうかは、訊かないでくださいね。俺は嘘はつけないタチだし、これ以上誰かにあかりちゃんのこと好きになられちゃ、困りますから。…じゃ、また明後日。と、そそくさと店を出て行った。


  電気の消えた店の前で、手を繋いで、見つめ合う。あれから5年。ひどく昔のような気がするのに、5年というにはあっというまだった。

  酔っ払っちゃったね。

  詢が背中を支える。ちょうどいい身長に見えるように…薫の持つ靴のヒールはすっかり、高くなった。

  寒いけど、気持ちいい夜だね。

  ああ、寒さがね。大丈夫かなマキノ、薄着だったなぁ。

  お礼しなきゃね。

  うーん、そうなんだ、あかりちゃんにもまだ、この前の鍋のお礼、ちゃんと言えてないんだよなぁ。…うちに来てくれたのがマキノでよかった、って、思うよ。俺がこんなだからさ、マキノのおかげで気軽に来れる、明るい店になってる気がする。お礼、しなきゃな。

  そうだね…。

  玄関に入るなり、詢は、靴の踵に指を入れようと前かがみになった薫を、後ろから引き戻して抱きしめた。

  店にいる時から。ずっと、したかった。

  あは。足、浮いちゃってる。苦しいよ。…詢ちゃん、急に、どうしたの?  今年は、ロマンティックな人になることにしたの?

  からかわないで。早く、ベッド行こう。

  詢は薫から鞄を引き剥がして、造作もなく、薫を抱え上げて肩に掛け、ハイヒールを振るい落とした。

  ベッドに放り投げられた薫は、着の身着のままだった。二人は黙々と服を脱いで、床に投げ捨てた。裸になった詢は、左の肘から手首まで、包帯が巻かれていた。薫が触れようとすると、詢は、応急処置しかしてなくて、痛いんだ。触らないようにしてね。と、傷を庇った。

  …どれくらい繋がっていただろう、寝室には、時計がないからわからない。時々漏れる吐息と、肌と肌がぶつかる、重たく濡れた打擲音の波から、浮き上がるように、詢が囁いた。

  ぐっさり刺して、激しくしてもいい?

  え…。

  痛かったら、言ってね。

  薫の脚を上腕でぐっと開いて、薫の肩先に手を突いた詢が、体格差のせいで浮いた薫の腰に、体を大きくぶつける。薫ははじめ、快感と苦痛がないまぜになって、声を殺すのがやっとだったけれど、詢が薫を切り刻むように激しく動くと、やがて、快感だけが体の芯をこじ開けて突き抜け、怖いほど、快感以外の感覚が、光を失うように、なくなっていった。

  …だめだこれ、やっぱりすぐいきそうになっちゃうなぁ…ずっとしてたいのに…。

  呟きながら、詢は今度は緩く、深く、腰を捻り入れながら、ゆっくりと回した。

  私は…いま、くらいのほうが、優しくて、ちょうど、いいかな…。

  薫の脚を掛けた腕でそのまま、詢は左側を庇いながらも、薫の脇に手を回して、ぎっちり頭を押さえて、薫を二つ折りにするように、抱きしめた。苦しい。まるで罰するようなキス、苦しくて、息が詰まる、薫はけれど…薫は、たぶん、これでいい。

  …っ詢、ちゃんは…。

  詢の表情がわかるのが、意外だった。そうか…常夜灯に目が慣れるほどゆっくりセックスしている自分たちを、薫はひどく、愛おしく感じた。

  え?

  私の、こと、…好き?

  詢は一瞬、息を呑んだ。その美しい瞳で薫をじっと見つめ、ため息をつくように、大好きだよ。と囁いて、額に額を押し付けた。

  大好きなんだよ。…ごめんね、苦しいね。

  また…深くて、肺までいっぱいになるようなキス。身動きできないほど薫を強く抱きしめたまま、詢は激しく腰を打ちつけて、呻くように、いっちゃうね、ごめん、ごめんもう我慢、できないいっちゃう、と早口に呟くと薫から身を離し、震えたため息を漏らしながら、薫の陰毛を生温かく、濡らした。

  

  ちょっと、水飲んでくるね。

  詢はベッドから立ち上がって、薫の頰を撫で、上布団を薫に掛け直した。

  寝るの、もったないなぁ。ちょっと、休んだらまた、戦いだ…。

  詢ちゃんなら頑張れるよ。詢ちゃんの頑張ってる背中、かっこいいから、好き。

  上布団ごと薫を抱きしめた詢は、さすがに素っ裸は寒いな、と笑って、裸にカーディガンだけを掛けて、部屋を出て行った。

  薫はベッドの下に脱ぎ捨ててあるコートをまさぐって、携帯電話を手に取った。

  3時14分。眠いわけだ。

  ふと薫は、サイドテーブルの写真立てに、携帯電話の画面の光を当てた。店が完成したときに敦が撮った写真の中で、詢と薫はドアの左、つけたばかりの看板の横に並んで、少し気まずそうに、けれども幸せそうに、微笑んでいた。初夏で、よく晴れた日だった。その隣には、同じ年の晩秋、釣りに行った時に撮った写真があって、鯵がたくさん入ったバケツを得意げな笑顔で見せる敦を挟んで、薫も、詢も、ピースサインをして、こちらに笑いかけている。

  幸せそうだ。

  幸せだった。

  敦の声が耳元に残っていた。結婚してから5年、困ったことなんて、なかったでしょ?だって俺、二人のこと、大好きだからさ。好きすぎて怖がらせてるかも、しれないけどね。だから、脅してるんじゃないんだよ。ただ、俺ばっかり遊んでるみたいで、こんなに二人を好きなのにって、寂しくなったから、打ち明けてみただけなんだ。それは…俺のエゴだから申し訳ないって、一応、思ってるけど…俺は今後、このことに関してはもう何も、言わない。本当、言ってみたかっただけだからね。絶対にね、二度とこの話題には、触れないよ。何にも、変える気はないし、きっと何にも、変わらない。ね。安心してね。

  …幸せだった。

  だから、たぶん、幸せだ。

  携帯電話をスリープにしてそっと床に滑り落とし、布団にくるまって、自分の身体を感じる。敦が詢で上書きされている。残っている感覚は確かに、詢のものだ。でも、その敦を上書きしたのが詢で、詢を上書きしたのが敦だったとしたら、薫の体には結局、どちらが残っているのだろう。

「大好きなんだよ」。

  …薫は小さな声で、詢の言葉をたどるように、大好きだよ、と呟いた。

  いまさら、何をどうしようもなかった。

  薫には絶対に埋められない部分を…抱えたまま、それでも詢が薫をこんなふうに、選んで、…そう、薫が詢と生きようとしているように、薫と生きようとしているのだとしたら、それは薫にとって、とても…。

  とても?

  薫は繋がりを見失って切れた言葉の端を持ったまま、立ち尽くしている。薫にわかるのは、二人は確かに愛し合っていて、一緒に生きていくために、一緒にいるのだということだけだ。…少なくとも、今は、そうで…。

  詢を愛している。それの何がいけない?

  詢を愛していると思うとき、薫は自分自身でいられるように感じる。詢も…。

「まあ、そんな時にも、あかりちゃんにはあかりちゃんなりの、マキノとの幸せがあるとは思うけどね」。

  詢は急に火傷の話をして話を逸らしたようにも見えた。火傷は…「珍しく」?

「二人とも本当、リアクションそっくりで、おひな様みたい。可愛い」。

  敦の言ったことをどこまで信じるべきか、もちろん、薫には分からなかった。全く信じないでいるには、けれど…あまりにも…。

  薫の愛してきた詢が、詢のすべてである必要なんて、どこにある?

  その一文は、薫のぐちゃぐちゃの頭の中に割り入って、こびりついて剥がれなくなった。たとえ、敦にしか見せない部分があったとしても、薫は、詢を愛してきた自分自身まで、失ったわけではない。どんなに…何があっても、それはたったひとつの真実だ。

  詢を、愛している。

  ただ、それだけが真実で、けれど真実は、そして、ただそれだけしか、なかった。

  薫は布団を枕の上まで引っ張って、すっぽりと、頭まで布団のなかに隠れた。

  薫と詢の淫猥な匂いが充満した、温かく湿った闇に包まれて、薫は、ほんの少しのあいだ、泣いた。

今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。