hellopinksunshine

独身30代OL。ひとり暮らし。 本、音楽、映画と、生活のことについて書いています。

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最近の記事

関心領域

映画館で『関心領域』を観た。 無関心とは、こんなにも残酷なものなのか。 倒錯した世界の中の秩序、そして日常とは、こんなにも恐ろしいものなのか。 こんなことをずっと考えながら観ていた。 あのエンドロール、忘れられないだろう。 そこそこいた観客の誰も帰らなかったし、終演後も誰も喋らなかった。 記録まで。

    • テレビを観ている弟が言う 「ねえちゃんはなにパンが好きなの。」 おまえよりやさしい子を ねえちゃんは知らないよ

      • 私の猫たち許してほしい

        本当に読んでしまってよいものか。 人の日記を盗み見ているかのような後ろめたさ。ああ文を書くとは、何かを表現するとは、まいにち自分の肉を削って人様に差し出すことだ。 汚らわしくとも、醜くとも、ありのまま見ていただくしかない。それが生活であり、生活が作品である。 この本の随所に、透明な文字で、そう書いてあった。 たいへんなものを読んでしまったと思った。

        • 自戒

          いつから私の読書はこんなにいやらしいものになったか。 この節の意図は、真意は、教訓はなんだ、と 自分の得分のために読むことの意地汚さ。 この本から何が得られるか、などという下心は捨てて。 本も音楽も、その「機能」に期待し始めたとき、私の味方ではなくなると心得ること。 などと書いてみるのすら格好つけでいやらしい。 堂々巡りでありました。笑

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        • love&respect
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          5本
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        • 音楽
          5本

        記事

          都会

          唐突にそんな気分になり、 シティ・ポップを聴きあさっていると ふと耳に入るやわらかい声。 ステキな浜辺 ハンサムな彼 おしゃれなブランチ な、 時代そのものを あっさりと蹴っ飛ばすような 爽やかさ。 そんなことを思うわたしは間違いなく 非都会的な女である。

          西

          この街に引っ越してきてからだろうか。 とにかく西が好きである。西って、方角の西である。どこに行ってもいいならば、わたしはひとまず西に行く。 なぜかも考えぬまま、長年のあいだ「ただ好きな西」だったのだが、生きていると急に出会うのである。わたしとおんなじ、「西派」の人に。 そうだ、西には夢があるのだ。わくわくして旅立っていけるのだ。そして、ずんずん進めば(いろいろ政治的な問題はあるけれど究極いえば)また帰って来られる。こういう「円環」のイメージは、わたしの趣味嗜好の深層部にあ

          なんてことだ。 「わたしは今日を無事に過ごした」と思っていたら、「わたしは今日もいろいろな間違いを犯して、いのち一日分浪費した」のだ。 ああ生きるとは。

          sweet

          この感じはなんだろうか。 日本語では言い表せないのだ。かわいい、ちがう。あいくるしい、ちがう。いとおしい、ちがう。(日本語はときどき具体性がありすぎるので不便だ。) さて英語の出番である。 「sweet」 これだ。 この詩はなんてスイートなんだろう。

          すきっと

          『銀河鉄道の夜』でジョバンニが見た「変形した天気輪の柱」も「すきっと立つ」の意味もピンとはこないのだが、私の思う、この世で一番「まっすぐにすきっと立った」ものは福岡タワーである。 今日も今日とて、俯いて歩くわたしなど「正面きっていけ。」と戒められるような美しさであった。

          平熱

          混沌とする社会情勢に、いちいち感情を昂らせるのはいやだ。自分の思念にのぼせるのもいやだ。かといって、白けて無気力になるのもいやだ。そもそも上がり下がりするのがいやだ。 何かこの感情をうまく言い表せないかと思っていたところに、表題の二文字である。 そうだわたしは平熱でいたいのだ。茨木のり子はいつも的確である。

          おいしいコーヒーの真実

          スターバックスの第1号店というだけあって、米シアトルにあるその店はずいぶん繁盛している。新人店長は目を輝かせながら自社の理念を語っている。 「まだ道半ば、未来は明るい。」 同じころ、その「スタバ」で飲まれているコーヒーの原産地では、ひどくやせ細った子供が、お腹をすかせて泣いている。この地域では人々が深刻な飢餓状態にある。 彼らが必要最低限を満たされた生活を送るには、生産したコーヒー豆に、現状(当時)の10倍の値がつかなければならないという。なにも車や家電を買うためではない

          おいしいコーヒーの真実

          争う

          ああ、そうだ。 なぜ、静 と 浄 は 争う という字を書くのかな。 この詩に出会い、 深く納得し、また 大変な難題を与えられ、 深く考えこむのである。

          しんでくれた

          都会に一人で住んでいると、死を忘れて生きていることがある。自分の死にかぎらず、生きものの死、植物の死、誰かの死、いろんな死である。 こんなわたしだから、田舎の実家に帰ると、頬をぶたれたような気持ちになる。 父と弟は、「あすこの〇〇さんが死んだ」「明日は通夜だ」云々、と、そんな会話ばかりしている。母は「悔やみの封筒ってすぐなくなるわよねえ。」とぼやく。 誰もかれも老いていく。迫りくる死も、現在進行形の死も、過ぎ去った死も、ぜんぶがごく身近にある。 ところでわたしの家は牧

          しんでくれた

          愛と苦しみの音楽

          大好きなエッセイストの本を読んでいて、ある章でパタリと閉じてしまった。ちょうど、「文化の素晴らしさ」を語る章の最初のほうだった。 そこには、「黒人がつくったロックやヒップホップや諸々の文化こそ、みっともなく低俗だ。」と書かれていた。 たしかに、ヒップホップもジャズもR&Bも、アフリカ系アメリカ人がつくった。そのルーツは奴隷制時代に遡り、彼らのもっていた16ビートを主とするリズムや、音感、恵まれた声や体格、そして過酷な生活を強いられる中で救いとなったキリスト教の教義が融合し、

          愛と苦しみの音楽

          まっている

          NHK 『Dearにっぽん』という番組を観て、医療をおこなう人、医療を受ける人と、またその家族が、物心を超えたところで「関係していくこと」について、いろいろ感じることがあった。忘れないよう、詩にあらわしてみる。

          あたたかいはなし

          例えば猫と接するとき、「粗相をしない対策」とか、「猫に嫌われない方法」とか、そんなことをネットで調べて答えを探そうとする。やって効果がなくても情報は無数にあるので、ひたすらに検索をつづける。 このとき猫と私は、その時間を共有していない。私は目の前に「リアルな猫」がいるにもかかわらず、頭の中の「猫の虚像」と安易に入手した情報とを照らし合わせて作業する。 皮肉なことにこの一連の作業は、猫とさらにつながろうとするためのものなのだが。つい先ほども生身の猫を差し置いて、私は試行錯誤

          あたたかいはなし