喪われた母性を求めて

幼少期の、同世代より年配者と関わる事が圧倒的に多いという育った環境における影響によってなのか、はたまた元々の素養なのか、気付けば小学校中学年にはあだ名に「おばあちゃん」なんて言葉が入る事が多かった。中学生の時に告白された男の子からはその理由を「お母さんみたいだから」なんて言われたりもした。そして高校生時分には「生き字引」なんて長老めいたあだ名を頂戴した。実年齢と内面のギャップがえげつないことになっている。

未だに年齢を誤魔化している、なんて言われるのが当たり前で、66歳から「喋ったらばあさんと話してる錯覚に陥る」とも言われた。じいさん公認のばあさんだ。

何がどうなったらそんな風に言われるのか自分でも理解できない。しかし私から出るフェロモンは確実にうら若き青年には効用を持たず、中高年に向けて絶大なパワーを発する時がある。

そしてその相手を観察しながらふと思う。この人達は、昔欲しかった母親からの愛情を今私で追体験しようとしているのでは?と。その当時欲していた母性を今穴埋めしようとしているのではないか?

高度経済成長に共働きが当然となり、鍵っ子が増えた時代に生きた彼らは気づかぬ内に抑圧を覚え、そして今私に当時の風を感じ、偶像化して母性を欲しているのだ。時代の産んだ中年男性の心の闇というニッチな層にマッチング。何だかポップなキャッチコピーみたいになった。

しかしながらそれが当人である自身にとって必ずしも喜ばしいとは限らない。そのせいなのか分からないが、いつしか男性の作り上げた偶像としての女性崇拝というか、垂乳根讃歌的な視点(善き母を奉る感じ)が生理的に受け付けない身体になってしまった。昨今のフェミニズム作品への興味というのもこの辺りから来ているような気がする。そのあたりの意識が確固たるものになるきっかけが、私の場合山田洋次だった。

は?日本映画の巨匠?意味分かんない。まあそう言わず聞いておくれよ。子供の頃の男はつらいよシリーズに関しては特段何か思う事なく観ていたと思うが、近年公開された作品がもう、良い作品なのだが、すこぶる私には向いていなかった。

女なら受け止める、受け容れるのが当たり前なのか?許容のひろさがその女性の価値を高くさせるのか?これだけ書くとただの心の狭い人間ですね。ええごもっとも。しかし昭和のステレオタイプみたいな女性像を現代で描くと、こういう嫌悪感を抱いて己の精神性がはっきりしてある意味良いのかも知れませんね。しかも演じる女優が吉永小百合さんだったりするからより根深いと感じてしまう。その前後の作品に関しても、倍賞千恵子さん、吉行和子さん、竹下景子さん、なんて顔触れだからああ、垂乳根… なんて一人心をもやもやさせてしまう。

話題の流れ方が異様な様相を呈してきてこのままだと的外れな政治批判とか始めてしまうんじゃないかという位荒んでいるのがみてとれる感じだが大丈夫ですよご安心を。

ともかく、令和を生きる昭和の面々はその当時に欠落した愛情的なサムシングを探っているだろうという訳だが、自分探しと一緒で、その当時見つからなかったものは現在にだってないよ、ただ近似値を打ち出すものならあるいは、と伝えたい。あくまでそれは似て非なるもので、ものは時代とともに移り変わっているのだ。

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