花束みたいな恋をしたを観て被害妄想してしまった


花束みたいな恋をした、あれって暴力鬱映画じゃなかったんですか???
坂本監督特有の会話劇によって、きっと儚くもやさしい、せつない映画なんだろうなあと(おそらく受け手にはそう映るように仕向けられていたような気がするのですが)思っていたのに、開始数分で肺がグワアアアアアと痛み、半身に手を添えながら、まるでもう得点差がひっくり返る奇跡も起こりうえないとわかりきっている試合をみる時のような感覚で観るというか見守っていました。
筋道立てたり整理してこれからの文を打てる気がしないけれど、いつも誤字があっても勢いだけでしか分に感情を落とし込むことができないので性なのでという一言に着地させるとして。
 まず、「このサブカルを知っている・すきだから自分は“わかっている”人間であるということのマウント張り」が二人から散見されたこと。身に覚えがありすぎてしんどいし、高校生の時に面談で担任の先生に「人間、個性なんてあるようにみえてないんだよ」という言葉を送られたことを思い出した。
このマウント張りは、冒頭の呑み会のシーンで押井守がいるのに気づいてなかった二人を揶揄して“わかっている”二人でその感情に酔いしれていることや、映画が割と好きであると自称している男性が「ショーシャンクの空に」を挙げたところ怪訝な顔をしたり、あるいは絹の父の「ワンオク聴くか?」的な問いに対し、「聴けます」と答えたこと、セカオワのRPGを歌う雰囲気のカラオケは「わかってねえなこいつら顔」をするのに缶ビール買ってクロノスタシス口ずさんじゃうところ。こういった行動が、「本当にその作品や曲がすきなだけではなく、それらを知っている“自分”があくまですきなのである」と言われた気がして、もっと言えば、「お前らのすきなんてこんなもんだろ?大学生のカルチャーが好きってこの程度なんだろ?」と被害妄想を繰り広げてしまったし、さらには、「ハッシュタグでスキを広げてんだろ」っていわれてんのかなって思ってしまった。
じゃあ、本物の好きってなんなんですかね。私は麦で言えばガスタンクで、絹で言えばラーメンブログだったと思ってるんです。この映画は、麦がわかりやすく社会に参画していってカルチャーマインドを喪失していく姿が目立つけれど、絹と麦が恋に落ちた時点で互いに自我の喪失が生じているよねと思っていて。ムンクの作品である「月明り、浜辺の接吻」から愛とは個人の喪失であると説いたムンク展での音声ガイドでもあったように。
二人の交際が始まる前、麦はガスタンクを撮ったクソみたいに長い映画を絹に見せていて、寝てしまった絹をいとおしくおもっているんですけれど、もうここで本当は二人は真に合っている者ではなかったように思えてしまって。ある意味つながりやすいサブカルチャーを、我が物顔しているという部分でつながってしまうと、きっと限界がきてしまうんですよね。そんな儚さやそれだけでつながれてしまう恋愛の面白みや切なさを描いてもいるのかなと思ってはいるのですが。
絹と麦は、会話不足であったと同時に、自己分析も足りていなかったふたりだなと思っていて。例えばなにかを好きになった時、「自分にとってそのなにかのどこが刺さって、どういう気持ちにさせて、それは例えばどんな時のきもちなのか、日常なのか、特別なのか、普遍なのか」を突き詰めて考えることが己を知るために大事であると思っている、それは嫌いもまた然りで。もちろん言葉にして定義づけ・位置づけを行うことによってそこから動けなくなったりする弊害もあるのだと思うけれど、それでもてめえの体内が震えた瞬間を言葉の限りを尽くして表現をしてみせろやと思ってしまって。別れることになってからグダってしまった生活の中で浮気したことあったかだったり、ミイラ展やガスタンクの正直な感想を話していたり、ああいう自分の感情をもっと相手に出せていたら、「たとえ好きな相手であってもあくまで他人であり、だけれども異なる感情を尊重しあえる関係性」を構築できるように付き合えていたらな、って思って切なくなってしまった。別れてからはシティガール・シティボーイ姿ではなくスマートな格好になっていたので改善したかなと思いきや、受け売りであるイヤホンの話を他人に押し付けようとしていたり、そもそもデート相手と対話を試みず自論を展開するだけして呆れさせれていたり、ある意味絹と麦って似た者同士でお似合いだったのかななんて思ったり。
…ここまで打ってなんだけど、終盤の別れの話のシーンでは泣いてしまっていたし、あの二人に付き合っていてほしかったのだろうなと思ったり。

麦が就職していって感性や人への接し方が変わっていくことの変化性と、絹が変わらずある意味現実をみずに意固地になる永遠性の対比なんですが、そういった意図はないとはわかっていつつも、“生い立ち”が大きく二人を左右してしまっているのかもと思い、鬱屈が降り注いでしまった。花火職人の父の下で地方に生まれ育った麦は、グーグルマップに載っていたことに大喜びするような様子から推測するに、コンプレックスを持っていたのではないのかな~と思ってしまった。カルチャーに理解が少ないお家柄だったからこそ、カルチャーを好きな自分や認めてもらえないことを社会に対して牙をむくのではなく、折り合いをつけて自分を社会にチューニングしていく生き方を選んだというよりも、“選べた”のかもしれないと。対して、絹は広告代理店の親の下に育ち、東京育ちだからこそ、まあある意味“食っていくこと”の大変さに対する当事者意識が低く、穿った見方をすれば“温室育ちで想像力の乏しい女の子”に見えてしまう部分があるんですよね、事務職を相談なしにさらっとやめてしまった行動とかからも見受けられるように。ある意味での麦との対なるその無神経・無自覚さは痛々しかったり、つらいものに映ってしまった。永遠性を求めて永続性を維持するために人生で一番楽しいと思える瞬間に死ねたらどんなに幸福だろうかと常日頃考えている私なのに、麦に感情移入してしまったし、麦をかばってしまう感情が私の中で大きい。自分のすきの追求のために自分の女を売るのではなく、自分が社会に参画して食わせようとしていく、ある意味時代錯誤かもしれない表現かもしれないけれども言わせてくれ、“男の背中”だったんですよ。かっこいい。愛するひとを守る男はかっこいい。専業主婦でもいいよって、そんなのお前人柱じゃん。パズドラしかできなくなっても、以前は小説に心動かされていたのに労働によって感性を蝕まれ、そんな自分の変化に気づいてしまっているのに、それなのに自分の感性を守るのではなく、二人の時間を守ろうとする。なんだよそれ。ずるいって。誰がこいつをこんな風にさせたんだ。社会か、労働か、女か、家族か、未来か、環境か。何かを標的にして憎もうとしてしまう、、、、この物語は本当に切ないという感情を引き出してくれるし、それだけ儚さが美しい、枯れるとわかっているのに美しさから目が離せない花束だった。


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