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世界で1番尊敬している母

母が脳出血で倒れ、意識がない状態が続いている中
私たち家族は、いつどうなるかわからないことに
日々不安を抱えていた。

そんある日の夜、父が突然パソコンに入れられていた昔の写真を探し出してくれた。

そこには、優しい母の笑顔がたくさん詰まっていた

母が倒れたことによって
失ってしまったことや未来への不安を抱えていたが
母とのこれまでの思い出や、母からもらった沢山の愛情を思い出すきっかけにもなった。

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娘から見た母は、
とても厳しくもあり、優しい人だった。
私の家は父の方が子供に甘かったので、
悪いことをした時に叱るのはいつも母だった。

私が小学生の頃、晩御飯の前におやつをたらふく食べていた私たち兄弟を見かねた母が、これまで見たことのない量のお菓子を大量に買ってきて、
「もうご飯食べなくていいから
 お菓子だけ食べてなさい!」と怒られ、
兄弟で泣いて謝ったこともあった。

小学校6年生の時には、母と喧嘩をした際に、私が
「くそばばあ」と言ったらしばらく口を聞いてくれなくなり、これも同じく泣いて謝ることとなった。

思春期には、自分の思い通りにならない感情を母にぶつけてばかりいた。タバコを吸ったり、夜遊びをした時は、正座をさせられながらすごく怒られた。

でもそれも母の愛情あってこそだった。

母は私が中学生ぐらいから専業主婦だったか、
家の家事はほぼすべて母が担ってくれていたし、
3食おいしいご飯をいつも作ってくれていた。

誕生日には、いつも大きなケーキを買ってくれて
みんなでお祝いするのが決まっていた。

裕福な家庭ではなかったが、
小学生から高校生までずっと大好きだったバスケットボールをやらせてくれて、大会になるといつも応援にかけつけてくれていた。

服が欲しい、携帯が欲しい、予備校に通いたいとわがままばかり言っていたが、私の願いはほとんど叶えてもらっていた。母はもともと贅沢するタイプではなかったが、自分の身なりにお金をかけるより、子供を1番に考えてくれる人だった。母は娘から見ていても美人だから、もっと磨けば輝いていただろうに…と今でも思う。

そして、母は家族で1番強い人だった。

三兄弟の末っ子の妹が小さい時に川崎病になった時も、父の会社が倒産し家を売らなければならなくなったときも、家計が苦しく生活するのが大変だった時も、母はいつも家族を励まし、希望を捨てずに前を向き続けていた。

弱音を吐いたり涙を見せることもなく、
自分が脳梗塞になった時も、
いつも明るく家族を照らしてくれていた。

そんな母との楽しかった思い出や
色んなことを乗り越えてきたこれまでを振り返り、
久しぶりに母の話題で家族が笑顔になれた瞬間であった。

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※写真は3人兄弟と若い頃の母の写真です。

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