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【旅行記】微魔女の微ミョーな旅・18

2.カンボジアー2017年 

 そのころ私は中学生だった

 翌朝、空港へ向かう道路は、既に中国正月の準備で盛り上がっていた。夫はここでも、チャラ男君に、また来ると無責任な約束を繰り返していた。ここでチャラ男君の名誉のために付け加えておくが、彼は大学で国際関係を勉強したエリートで、将来は外交官になりたいという野望も持っていた。虐殺収容所での解説は、非常に詳細だったと夫も感心していた。
 「今度は、地方の田舎に行きたいな。シェムリアップで行ったような田舎の町」
 初めての海外旅行なのだから、ほかの国へ行けばいいのにと思う。一体、何がそんなに夫の琴線に触れたのだろうか。
 「私は、カンボジアはもう十分だわ。次はベトナムかな」
 空港でチェックインを済ませてから、コーヒー1杯が食堂の一食分するファーストフードチェーン“ブルー・パンプキン”で、カンボジア最後のコーヒーを飲みながら、5日間を思い返してみた。
 人は総じて大人しい。子どもから大人まで笑顔を見せながらも、瞳の奥に見え隠れする何かを疑っているような何かを諦めているような印象が気になって仕方がない。
 「カンボジアの人たちは、腹の底から笑ったりするのかな」
 中南米の国々のように、貧しいなら貧しいなりの開き直ったような明るさがあるはずなのに、この国にはなかった。ほんの40年前の出来事が、人をこんなにも変えてしまったとしか思えない。私が中学生だったころの、壮絶な歴史。
 「今度来るころには、街も発展しているだろうね」
  “入れ物”だけは、もの凄い勢いできれいになっていくだろうが、この国の人たちが心まで平穏で豊かになれるのは、ずっとずっと先のような気がする。
 
 ところで、初日に空港で見かけたリーフレットについては、子どもがいるピーが、陰鬱な顔で説明してくれた。息子もいたし、車のなかに重い空気が立ち込めたので話はそれで終わりした。もうひとつの件については、自分で調べてみたらこういうことだった――“カンボジアの恵まれない子どもたちの笑顔のためにボランティアをしよう”といった類の広告は、外国人の善意に漬け込んだ“孤児院ビジネス”の場合が多い。ボランティアを募集する斡旋団体や旅行代理店が取る仲介手数料のほとんどは使途不明金となっている一方で、こうした孤児院の子どもたちの八割方には親がいる。彼らは誘拐されたり、貸し出されたりしている“仕込みの子どもたち”である。ボランティアスタッフの同情を買うために、みすぼらしい服を着せ、満足に食事を与えないといった児童虐待の現場でもある――要するに、人の善意や慈悲の心を利用した観光ビジネスの一形態である“ボランティアツーリズム”に騙されないようにしましょう、ということだ。
 次回、カンボジアに来たときには、こんなリーフレットがなくなっていればいいね、夫。
 

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