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毒親育ち -Part2-

【毒父編】

短大に進学して直ぐ、私は父からこんなことを言われる。

「留学させるつもりはないから、卒業したら働け」

中学の頃から留学を希望し、その度に「高校を卒業したら…」「日本で大学を卒業してから…」と説得され、上手く騙されてきた私はその一言で完全に切れた。

父はこうも言った。

「やりたいことがあるなら、親が死んでからやれ」

私は父が40過ぎてから出来た子だ。しかも父が望んでいた女の子だった。念願の女の子が産まれた父は、私の一生分のプランを立てていた。その中には言うまでもなく、一人娘の留学など含まれていない。一通りの教育課程を終えたら地元で就職し、婿入りしてくれる次男坊と結婚し、二世帯住宅で暮らす - それが父が私に準備していたプランだった。

「親の言う通りにしていれば間違いないんだ」

どこかのドラマにでも出てきそうなセリフに、今度は父に対して不信感を抱くようになる。

このままでは自分が駄目になる…。

その時から、私は今さらながら貯金を始め、黙々と留学の準備を始める。両親に正式に留学の報告をしたのは、渡米の2週間くらい前だったと思う。

足りない金額を出して欲しい。

もうキャンセルはできない。

そう言って、1年だけアメリカへ行ってくると私は逃げるように日本を後にした。

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生まれて初めて親元を離れた私は、初海外で全く英語が喋れなかったにも関わらず、一瞬たりともホームシックを経験することはなかった。

それどころか全てが新鮮で、輝いていた。

初めて手にした自由を、私は思う存分満喫した。

英語が喋れないことも含め、不便は色々あった。嫌なこともあった。それでもそれを苦と感じることは全くなかった。

それまでの21年間を考えたら、アメリカは天国だった。

楽しかった1年はあっという間に過ぎた。とりあえず1年で帰るという約束をしていた為、大学の寮が閉まる夏休みを利用して、私は日本へ帰国する。

懐かしいけど、懐かしくない日本がそこにはあった。

1年離れて暮らしたことで、私の母に対する憎しみや父に対する不信感も和らいでいた。最終的に留学させてくれたことを感謝する気持ちの余裕も生まれていた。

しかし、1ヵ月もすると再び家の中に不穏な空気が漂い始める。

父は、私に「これを正しく発音してみろ」と自分も知らないであろう英単語を読ませてみたり、「今テレビでなんて言ったか訳してみろ」など私の語学力を試すようなことを言い、

「なんだ、高い金払ってアメリカまで行かせてその程度か?金の無駄じゃねぇか!

と嫌味が始まるようになった。

英語習得は最初の3ヵ月が勝負 - 何が根拠か知らないけれど、当時タモリあたりがよくテレビで言っていた『3ヵ月神話』を父も信じていた。英語なんて3ヵ月も現地にいれば自然とわかるようになるし、わかるようにならなければ努力不足ということだ。3ヵ月どころか1年も行かせたのに、流暢に喋れるようになっていない娘に、父は不満をあらわにした。

毎日続く説教にうんざりする。

こんなところ、もう私とっては何の意味もない。

アメリカへ戻りたい。

そして、絶対に英語が喋れるようになって見返してやりたいという強い念が私の中で芽生えた。

短大の単位がトランスファーできたことで、アメリカの大学での学位取得までの目途が立ったのを理由に、私は再び日本を後にする。

そこから勤めていた会社が倒産するまでおよそ10年 - やむを得ず帰国が必要になった時を除いて、私はずっとアメリカを離れなかった。一向に帰ってこない娘に、父も途中で諦めがついたようで「学歴は邪魔にならないから」と、二世帯住宅を建てるための資金を私の留学費用にあて、援助してくれるようになった。

それまで毒親でしかなかった両親と私の関係は、太平洋を挟み、地球の裏側まで逃げることで、やっと改善することができたのだった。