hellcat705

21で渡米。32でdot-comバブルが弾けて勤めてた会社倒産・失業と同時に永住権当選…

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21で渡米。32でdot-comバブルが弾けて勤めてた会社倒産・失業と同時に永住権当選、39で帰国。47で派遣から正社員。父も看取って実家も売却。母の為に家まで建てたけど、気付けばプチ黒企業で切ない社畜生活…人間らしい生活がしたくて、再び海外移住を検討。

最近の記事

果たして私は本当に海外へ行くのか?

海外再移住を思い立ったのは、2019年頃だったろうか。降って湧いたような娘の不登校に戸惑い、「寄り添え」というばかりの学校や医者にもどかしさを感じてやり場のない怒りと不安の中で、私は再び海外生活へ思いをはせるようになった。 元々日本で子育てする気などなかった私の決断は早かった。 ところが、そんな中で日本でもコロナが流行し、あっという間に猛威を振るい始めた。 外出制限が出たり、海外渡航も規制された。 色んなことが頓挫した。 カナダは留学生の受入れを中止していなかったもの

    • 毒親育ち -Part2-

      【毒父編】 短大に進学して直ぐ、私は父からこんなことを言われる。 「留学させるつもりはないから、卒業したら働け」 中学の頃から留学を希望し、その度に「高校を卒業したら…」「日本で大学を卒業してから…」と説得され、上手く騙されてきた私はその一言で完全に切れた。 父はこうも言った。 「やりたいことがあるなら、親が死んでからやれ」 私は父が40過ぎてから出来た子だ。しかも父が望んでいた女の子だった。念願の女の子が産まれた父は、私の一生分のプランを立てていた。その中には言う

      • 毒親育ち -Part1-

        【毒母編】 私の両親は2人とも戦前生まれで、晩婚だった。 友達のお父さん、お母さんの誰よりもずっと年上で、考え方も古く、他の家庭とは明らかに違っていた。ちょっとでもわがままを言えば「戦時中は…」という決まり文句が飛び出して、子供ながらにうんざりしたのを覚えている。 父も母もそれぞれ別の方面で厳しく、家に居てもまったく息の抜ける暇がなかった。特に母とは、中学生になり思春期に片足を突っ込み始めた頃から衝突が絶えなくなった。事ある毎に角を突き合わせ、酷い時には30分と同じ部屋に

        • 家をめぐる話 -Part1-

          築50年以上も経つ古い実家を売却したのは、去年の夏のことだった。 売却を決めてから実に8年の月日が流れていた。 父が母との結婚を機に建て、増改築を繰り返したその家で、私は21歳で日本を離れるまで暮らしていた。 床はいつ抜けてもおかしくないほど、ところどころ腐ってベコベコだった。 窓からは隙間風が入り、冬など外と変わらないくらい寒かった。 東日本大震災の後には建付けが悪くなり、襖や障子が開かなくなった。 段差ばかりで、足元がおぼつかなくなった母を見ては転ぶのではない

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          学校選びの高いハードル

          カナダ移住を思い立ち、まず相談したのはカナダ公認のコンサルタントだった。FSW(Federal Skilled Worker)としてカナダでの雇用先なしにビザの申請ができるかもしれないと知り、問い合わせた。 結果は、「年齢」と「カナダへの適応能力」が0であった為、惜しくも申請できるポイントには届かなかった。年齢はどう頑張ってもポイントの稼ぎようがない。コンサルからは、1年カナダへ留学し、卒業後に1年間の就労ビザを取得してカナダでの経験を積むことで足りないポイントを稼ぐよう勧

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          なぜ50にして海外移住なのか?

          ”それ”は私の中で以前から静かに燻っていた。 帰国して丸10年ー。 もう二度と海外へ出ることはないだろうと思っていた。 出たくても出られない事情もあったし、離婚した私の心は海外生活に疲れ果てていた。辛い結婚生活で適応障害を発症し、完全に打たれ弱くすべてのことに対して臆病になっていた。 別れた夫やその家族、親せき、弁護士に至るまで全員が敵だった。周りが高みの見物を決め込む中、私はたったひとりで戦った。 そんな時、日本は優しく私を包んでくれた。 多くの人が助けてくれた

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