ヘライさんの死生観がバグってる話③

前回と前々回で死にかけた話を綴ったのだけれども、結局どっちも死にかけることはヘライさんにとって全然怖いものではなかったのだ。
ただ、産まれた時にもう死にかけていたからなのかどうやら“死ぬこと”ということに対しての考え方が小さい頃からいわゆる一般的なものではないみたいなのだ…

小さい時母イさんにこういった事があるのだ

「ねぇねぇ、あたし死んだことないから死んでみたいなぁ」

それはもう怒られましたのだ、どれくらい怒られたかというともう癇癪レベルで怒られたのだ
でも、幼かったヘライさんはどうして母イさんがそんなに怒るのかわからなかったのだ、ヘライさんは好奇心から“死んでみたい”と言っただけだったからなのだ。

そして思春期になって“生とは、死とは”ということに関してすごく考えるようになったのだ
もちろん色んな人がいろんな宗教を信じていたり考え方は違うから正解なんてないし、もしくはどれも正解なのだ。

思春期の時にヘライさん自身が出した答えは生きる本能(エロス)と死に向かう本能(タナトス)があって、どんな人も平等に産まれ落ちた瞬間から死に向かって生きているのだ、成長だって死へのステップにしか過ぎない。
そして、死んだ後には“無”がある、ヘライさんはよく言う三途の川であったりとか、お花畑であったりとか、エデンとか地獄とか…
それはヒトが作り出した共通概念であり、死ぬ時に走馬灯のように…というのも脳がエンドルフィン的な何かを出して見せる海馬の記憶だと思っているのだ。(ちゃんと信仰している方には申し訳ないのだ、あくまでヘライさんの感想なのだ)
だから、ヘライさん的には死んだ後にはただただ何も無い。
そういうことを思うのだ。

そして常に死んでみたいという好奇心と思春期以降は希死念慮を抱えて生きているのだけれど、ヒトは中々簡単には死ななく出来ているみたいなのだ。
超早産でもバイクで派手に事故っても副作用で死ねそうな薬を100錠飲んでも、そう簡単には死ねないのだ。

どうして希死念慮が起きるのかと言うと、ヘライさんの場合は抵抗があまりないからだと思うのだ…だから悲しくなったり寂しくなると無になりたい。
そう思うのだ…

今となっては希死念慮はもはや擬人化されて“死にたみ君”としていつも付かず離れずいて、半笑いでぴったりと隣りにいたり、少し見えないところに離れていたり、でもこの1Kの部屋の中のどこかにはいつも必ず居るのだ。
死にたみ君自体が側に寄ってくると、とっても苦しくて居ても立っても居られないくらいなのだ…

そして現在ヒトは中々死ねないことと、いわゆる現世、生きているうちの話なのだけれども、ヘライさんが死んだ後、時々誰かが思い出してくれる人になりたいな、ってそう思い始めたのだ。
誰かが心のなかで21発の空砲をならしてもらえる存在になりたいと。
どんな些細なことでもいいのだ、あんな阿呆がいたね、とか。

だからヘライさんは何者にも多分なれはしないけれども、死ぬまでは生きてみようかな、生きているのも今のうちだけだし、と思うようになってきたのだ、相変わらず希死念慮は抱えているけれども。

まぁ、ヘライさんの死生観はこんな感じで少しバグっているのだ…
たまに中二病が発症すると愛する人を守るために盾になり蜂の巣になって死にたいwwとか
どうせ散らす命なら介錯なしの腹切りで。
とか馬鹿な妄想をしたりするのだ。
きっとこういう妄想も誰かに思い出してもらえる人になりたい、そういうところから来ているのだろうね。

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