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ネット世界での受傷体験と戦争について。80年ほど戦争を知らぬ日本人のワタシが思うこと

「回転寿司店の醤油さしを舐めた少年には烈火の如く怒れるのにイスラエルによる虐殺に何も感じない日本人が多いのか?」という投稿を見た。

それが誰の発言かワタシは知っているが、この者の名前やルーツや立場に関係なくワタシの思うところを書きたいため、あえてその名を残さない。

これに先立ちツイキャスで配信を行った。奇しくも上記発言を行なった人物と、画像投稿の仕方に問題を感じた人物は共に同じ政党に属する議員であるが、所属政党に限らず指摘したいことであるため党派性は含まずに読んでいただきたいと思う。

残虐性をプロパガンダに利用することの愚かさと半分正しいけど半分間違ってるTikTokerについて / Vortex Live TV


話を元に戻すが、「虐殺に何も感じない日本人が多い!」とあなたが感じたのならそうなのだろう。

またリプライを見るに「ハマスが先に手を出したのが悪い!」という意見が多く、いやー、民間人の少女をあのような形で惨殺し、見せ物にするのは完全に人道的にアウトで、ハマスが先にやったとかどうでも良く、事実、国際社会はいくらなんでもやりすぎだと言ってることくらい調べとけよ情弱。と思った。まぁ彼らは海外というと中韓露と米英豪くらいしかないと思っとるのだろう。バカにつける薬はないので放置する。

だが、ワタシは米軍のアフガン撤退に際し、空港に集まったアフガン人がテロの犠牲になり、そこにいた兵士も犠牲になり、またその兵士が南米出身の移民であり、もう少しで退役するはずで、そうしたら大学に行くはずだった、おそらくは一族の期待を一身に受けて送り出されたであろう若者の、遺された移民家族の葬儀の様子を、使えない英語をゴニョゴニョと翻訳アプリにかけながら目撃した。

同時に、米国人と結婚し大都市に住まう日本人が、息子の音楽演奏の姿を楽しげに配信しているのも目撃した。多くの米国人にとってアフガニスタンからの苦い撤退は日本のミリオタたちが騒ぐほどには関心を持って眺められなかったようにも思う。

人種で括ってマジョリティをバッシングするとなんか差別と対極の位置に自分の身を置いた気がして安心感ありそうだよね。だがそんな議員に本質的な問題が見えているとも思えない。

ところで本当に何も感じていないのだろうか?
これはあくまで一仮説であり、それが真実だということではないが、一つの可能性として残すためにnoteを綴る。

悲惨な状況に置かれたとき、それを意図して感じないのではなく、感じてしまうと心身に影響があるため脳が自動的にその情報を隔離してしまうことがある。

受傷体験自体は日常的に起きており、スモールtと呼ばれる。

レイプや戦争などはトラウマの中でもビッグTと言われる。

スモール・ビッグの違いは影響の大きさ深刻さではなく、さしあたり「1発の受傷で深刻な影響を及ぼすだろうと判断されるもの」であり災害もここに含まれる。

意外にもネグレクトはスモールtに分類されるようだ。それは「積み重なることで深刻な影響を及ぼすだろうと判断されるもの」であるらしい。

ビッグTはたいていの場合個人の努力で受傷を防げるものではない。そのためにスモールtはともすれば「大したことない」と考えられがちだが、逆にスモールtは日常的すぎてその蓄積に気づきにくいという点で厄介である。

まして日本は長く戦争当事国になってないので、一枚の画像でもビッグT寄り(戦争由来)のスモールtが蓄積しやすいのではないか。

そう考えると津波の動画を流す時「トラウマのある人は観ないように」とアナウンスされるように、戦争の動画や画像にも緩やかなゾーニングは必要ではないか。過激な政治的主張が忌避され「うんざり」されることとも関係があるかもしれない。

もちろんこれは動画や画像を流すなということではない。

幸いにもXにはセンシティブ設定があり、加工アプリやX自体の機能を使ってモザイクやそれと同様の加工をすることができる。

真実の姿を包み隠さず受け入れるべきだという正義はワタシ個人も実践しており(ウクライナ侵攻でも脚切断の男児の写真などをよく見た。見ておくべきだと感じたからだ)、正論ではあるが、誰しも受容できるキャパは一定ではなくグラデーションであり、ワタシにとってOKなものが他の人にもOKとは限らない。

また、そもそも、ご遺体をあのように人晒しにするのは、その目的が明確に侮辱であり、パレスチナ人全体への恐怖心を煽るためであることは疑いない。

「お前やお前の娘もこうなるぞ。嫌ならサッサと我々の土地から出ていけ」と。いつだって、利用されるのは女・子どもだ。その方が対象に与えるショックが大きいからだ。

同じことをハマスもやったじゃねえか!との反論があるとするなら「その通り」としか言いようがない。ワタシはこの点において「誰が不公平か」の話はしていない。ワタシがしているのは「伝え方」の話だ。

不快感と憎しみだけが再生産されるシステムの一部になってしまって本当に良いのだろうか?

一度よく考えてみてほしい。別にあなたがそれで損をしたり、命を失うことはないのだから。

ワタシは断固として、そのようなプロパガンダに反対する。また彼女の無惨な姿を政治的に利用せんとするあらゆる動きに反対する。

誰もが大切な誰かの家族だ。それはどちらの立場でも同じだろう。ワタシが出会ったユダヤ人と、イスラム教徒が実は同じ風景を見ていた話などはまた気が向いたら書こうと思う。気が向いたらなのでなかなか書かないかもしれないけど。

彼女と、おそらくは彼女と共に惨殺された方々が、彼らの信仰に寄り添った形で、丁重に大切に、荼毘に伏されてほしいと願っている。

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