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郡司真子とのバトルとかマジでどうでもいいんだけど、一方で宮台真司もガチで間違ってる。在るものを無いと言ったらダメ

「軽く」騙されているのは誰か


|煎餅布団|・ω・`)ノ ヤァ.どうもー!
郡司真子には本多パージの件で被ブロック
宮台真司にはいつの間にか(キッカケの覚えはめちゃくちゃある)エゴサブロックされているhelixmakimaki です!

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あ!お名前間違えてましたので謝ります!
❌郡司昌子
⭕️郡司真子
です。マジですみませんでした!お名前間違えてしまったことは全面謝罪します!

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そんなわけでお二人のレスバには全く興味はないです。郡司真子も嫌いだし、宮台真司も嫌いです。お二人で対消滅してくださったら、Twitter界も少しは平和になるかしらと日々心よりお二人のご活躍を祈るばかりです。

でもねぇ、数日前の話ですが、宮台さんこれはいけませんね。

元ツイートは→こちら

よく知らない未信徒さんを【軽く】騙すような事をしてはいけませんよ、先生。

なお、引用元の方もカトリック、宮台もカトリック、ワタシはメソジストの学校に学び、福音派で洗礼を受け、現在は聖公会の信徒という人生迷いまくりの未年です。メエエエエ🐑

つまり【軽く】騙されてるのは全く事情を知らないノンクリスチャンということになります。

宮台真司の「現在のカトリックは家父長的なもの(妻や娘は男の持ち物)を含みません」というのはまぁ少なくとも実態に即していない【ご都合主義的解釈(人によってはその態度をこそ家父長制的であると批判することでしょう)】と言わざるを得ませーん。

結論から言いましょう!

結論

今回の話は完全に666%宗教の話です!!!!
フェミとかジェンダーとかも話の流れにどっぷり関わりますが、ある特定の宗教内の実態に照らし合わせるとその説明雑すぎんだろ?ノンクリスチャンがよくわからんことをいいことにそんな雑な説明で軽く騙すようなことすんな。それは第二バチカン公会議の精神にも聖書の精神にもイエスの言ったことにも反するぞ。大丈夫か?お前、聖書もういっぺん読んでこい宮台真司。という話です。

そりゃあオラが宗教やもん、よく見せたいのは当たり前。でもそれをやっちゃあお終いよ。という話ですね。

なぜやっちゃダメなのかは後半に書きます

そもそも家父長制ってそんなに狭義な定義だったっけ?

高名な社会学者さんですからね。日頃から「カトリックです」「クリスチャンです」と言ってて、ご自身のこの発言の問題に気づかないはずはありません。

家父長制の定義自体がキッチリ確定されていないのも素人目にはあまりにもお粗末に見えるのですが、しかし、家父長が必ずしも父親を指すものではなく、また男が妻や娘をモノ化して支配するということだけが家父長制の問題点ではないことは既に概ね識者の中でも共有済みでしょう。

つまり、これは一例ですが、母親が娘を「あなたのためよ」と言いながら支配する行為もまた家父長制的な在り方として批判されるということです。もちろん父親や母親だけが悪になりうるわけでもありません。

司祭が信徒にという形だってありうるのです。というか宗教という性質上、いつだってパターナリスティックであることと無縁ではいられないのです。これについては後で具体例を出して話しましょうね。知っている人もたくさんいると思いますが。

え?まさか?それがわからんなんてことは流石に無いと思いますよ!ワタシは無学な高卒の取るに足らないハシタメですが、宮台先生は教鞭をお取りになられる方ですから、その辺りのことがわからないということは100%あり得ません!のはずです。よね?ね?

ところで。第二バチカン公会議それ自体をうんぬんすると『典礼ハカイダー』が沸いたりして非常にややこしかったりします。

ヤバげな政党の市議でいらっしゃる悪名高きオルレアンの乙女大先生(前科一犯)がそうです。カテキズムを錦の御旗に『カトリックから分かれたプロテスタントなんか足元に及ばない!』ぐらいの態度なんで、実際リプライでお話しされた時はビックリしましたね。もう何年も前の話ですが。

だからワタシは第二バチカン公会議の中身そのものにはあまり触れないでいることが多いです。めんどくさいんで。カトリックのそういうとこ。ようはあまりにも革新的過ぎて人によってはアンタッチャブルな内容だったんです。

日本聖公会での女性司祭誕生までの道のりは長く、そして急激に発展した

話がそれましたが、「現在のカトリックは家父長的なもの(妻や娘は男の持ち物)を含みません」発言。

いやいや、嘘やからそれ。
少なくとも実態に即してないから。
大体あんたとこ(カトリック)女性神父1人もおらんやん。何言うてますのん???

確かに第二バチカン公会議以降、キリスト教社会は変革しつつある。ラテン語から各国語で礼拝することが許され、祭壇向いて信徒にはケツ向いてた(失礼)神父・司祭の立ち位置が変わり、聖書朗読が信徒にも解禁され、共同体全体として共に礼拝することができるようになった。

それは宮台がいうように第二バチカン公会議が目指したものの『実現された形』だといえますわな。

だけれども、依然として、家父長制的なものは在り続けている。

ちょっと豆知識だけど。
プロテスタントっていうのは、その中にいくつもの教派(仏教でいうところの宗派)がある。カトリックは唯一無二のカトリックという存在で、プロテスタント諸派はそれぞれ背景は異なれどカトリックを批判し分かれていった。カトリックから分離独立した教派をまとめて、カトリックにプロテスト(抵抗)したから「プロテスタント」と呼ぶ。

他にも正教会という一大教派があるけど、それはまだ今度ね。ワタシの所属教派の日本聖公会はプロテスタント。英国国教会の日本の宗教法人での名前と言えばわかりやすいかな?カトリックとはとてもよく似ています。

その日本聖公会では去年初めて、ワタシも面識のある方が北海道教区で女性主教となった

日本聖公会 笹森田鶴司祭 日本、東南アジアで初の女性主教に 2021年12月20日

教区ってのは都道府県みたいなもので(線引きは都道府県とは異なる)、いくつかの教会をまとめて教区というエリアにする。それぞれの教会を管理するのが司祭(カトリックでの神父。他のプロテスタントでは牧師と呼ぶ)。主教はその教区全体を管理する都道府県知事みたいなもんかな?

『日本聖公会で』女性の主教が誕生したのは東アジア初の快挙

でも、ほんの10年くらい前まで北海道教区は「女性司祭なんて絶対にありえない!断固反対!」という風土だった。東アジア初の女性主教となった方が東京の教会に赴任していたときには、そこの信徒さんが「今の司祭さんは女だからダメだ」と言っているような有様だった。

「なぜ女性司祭がダメなのですか?」

と、実際に北海道教区の男性司祭にそうぶつけたこともある。

プロテスタントの中でも聖公会はカトリックに近い。カトリックを強く批判して分かれ、発展していったプロテスタントは女性牧師も当たり前に存在しているから、元が福音派で洗礼を受けたワタシには不思議だったのだ。「だって女も男も神の下では平等ちゃうん?」と。

彼の答えはこうだった。

「司祭按手(司祭になる儀式)は元を辿れば十二使徒。脈々と十二使徒たちの手によって継承されてきたから」

つまり、その十二使徒が全員男性だったからというのが本当に真面目な答えだったのだ。オウマイガッッ!

先にも書いたが、カトリックでは未だに男性の神父しかいない。これが厳然たる事実なのである。

ワタシはカトリックではないからカトリックのそのやり方を「変えろ」とは言わないけど(そんなものは自分達でやればよろしい。自分達で変えられないものを他人が変えることもできない)、

教会が一つの家族だとするなら、普通に男性が権力を独占してるのは客観的事実でありましょう。それ自体が家父長制そのものだと批判されても仕方あるまい。

敬虔な信仰を持っていても愛し合う同性愛者は「聖なる結婚」ができない


概念的には第二バチカン公会議は「貧しい人や虐げられた人の側に立つ」と宣言したし、同時に「絶え間ない刷新と将来志向」を謳ったものの、まだ実現していない。そのことはバチカンでも認めるんじゃなかろうか。

宣言が実現されるまでにはたくさんのハードルがあるのに、もはやそれすらないもののように断言することは端的に間違っている。クリスチャンとしても、社会学者としてもだ。

キリスト教社会全体としては女性司祭・女性牧師が着々と増えても、キリスト教の抱える家父長制的な側面は存在し続けているのは疑いない事実でしょうよ。

LGBTQの問題。これはキリスト教社会を根底から揺るがすタブーの一つだけれども、

未だに彼らをワタシたちと同等のメンバーだと認識していない。それどころか議論それ自体がろくに進んでいない。

聖公会の場合で言えば、自分が結婚するのでもない愛し合う誰かさん2人の結婚について、それを自分達のそれと同じように聖なるものとするべきかどうかで散々争った挙句

「もういい!私出てく!!!リベラルのわからずや!」

とばかり、保守的でLGBTQの存在を絶対に許せない正しい人たちは出ていってしまった。

*北米聖公会は同性愛を認めず、米国聖公会とカナダ聖公会から離脱した

分裂分派は良くないって聖書に書いてあるのに、人はとかく分裂したがる。

一方カトリックでは、自身がゲイである事を告白した勇気あるバチカン高官が、法王庁によって即時解任された。かつて異端裁判所だった教理省のエリートは、神のみ前に偽りなくあろうとしたために全てを失ってしまった。ただ、愛、それ一つだけが今でも彼と彼のパートナーとの間に失われる事なく存在している。

その事を宮台が知らないはずはない。彼が受洗したのは2008年ごろだから、2015年に起きたその衝撃を耳にも目にもせず誰からも教えられないということはあり得ないだろう。もしそうであるならよほど関心がないのだとしか言いようがない。

同性愛カップルは、両者がどんなにか厚い信仰を日々積み重ねる敬虔なクリスチャン同士だったとしても、7つの聖なる秘蹟の内、聖なる結婚に預かることができない。

秘蹟とはキリストの愛の証が目に見える形として表されたものとワタシたちは信じていて、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、婚姻、叙階の7つをいう。聖職者となる叙階を除けば、人生のそれぞれの節目と重なり、信仰生活を行う上で、欠くべからざるものといえる。

信徒と未信徒の場合でも聖なる結婚にならない。その場合は「祝福式」という形になり信者同士の結婚よりは一段低いものと扱われている。そうでないというのは欺瞞だろう。

双方が信徒の同性愛者カップルは、その祝福式ならば許される。というのが今の現状なのだ。

無宗教や無神論者の人には理解されにくいかもしれないけれど、それってすごく傷つくことなのよ。だって他のことはきちんとしていても「同性愛は罪だ(だから聖なる結婚ができない)」って価値観が今も根強いってことなんだから。

秘蹟としての結婚と、その問題点は別に書く必要があると思うからそのうちガッツリ書くね。みんな大好きなおフランスの結婚事情もさ。

このことを真正面から話し合うことすら憚られ、そして、バチカンは迷走し続けている。保守的な信徒を手放すことも、革新的な信徒を手放すこともできずに、苦しんでいるようにさえ、ワタシには見える。ほんとは神学的にはもはや乗り越えられている問題なのに。

ちなみにプロテスタントでも「どうなんそれ?」と思うことがあった。

随分前のことではあるが、ある東京の聖公会ではないプロテスタントの女性牧師は、神学科を出て牧師の資格を持ち、任命されてある教会を管理していたが、同性愛者であることを告白したら教会の管理の任務を解かれてしまった。

日本のキリスト教社会は日本社会全体と同様にものすごい高齢化が進んでいて、司祭や牧師になる人がいつも足りなくて困っている。それなのに、同性愛者だからと、教え導く能力とは別のところで役職を解かれてしまう。そんなの、おかしいと、ワタシは思っている。

既に神学上、それは乗り越えられているのに、実際にはまだ人の心がそれについていかない。

彼らが罪とされる根拠として挙げられた聖書の箇所は、近年、神学者たちによって、それが個々人の愛ある関係のことを指しているのではなく、キリスト教以前の宗教文化による神殿娼婦(男娼もあった)を非難したものであるといわれている。

だから彼らが本当に愛ある関係を築いているのならそれは罪ではない。当たり前のことだろう。

大体なんでそれをたかが人間であるワタシたちがジャッジできるのか。それこそ思い上がりっちゅーもんじゃあないのかい?

この国に限らず、歴史の中では、親同士の認めぬ結婚のために引き裂かれたカップルがいくつもあった。自由恋愛が当たり前のものとなり、パートナーシップ制度ができても、その制度は彼らの事実婚を何も保証しない。公の、俗世の制度が彼らの関係を何一つ保証しないのに、我々宗教の側も彼らに寄り添わない。なんだそれ。

世の中に溢れんばかりの身内の悪を見逃すのか?お前は

もう宮台の、「現在のカトリックは家父長的なもの(妻や娘は男の持ち物)を含みません」発言は充分粉砕できた気もするんだが。でもこのことをワタシは絶対に黙っておけないので、overkill状態だということはわかっているが話を進めよう。

長い長い間キリスト教社会が見て見ぬ振りをしてきた大いなる過ち、タブーの一つ、小児性愛と児童虐待の問題。

ようやく、ようやく、ようやくだ。ようやくにして、ようやく、昨年6月になってようやく、バチカンが教会法を変えて、処罰の対象になると明記した。

カトリック界小児性愛の闇に、教皇がようやく処罰規定 被害者「高位聖職者に甘い体質が問題」

記事文中に批判があるが、遅すぎるが、軽すぎるが、実効性には疑いがあるが、それでもないよりはマシ。というのがワタシの評価だ。

これこそ、家父長制による搾取そのものだろう⁉️
聖職者に抵抗できる子どもなんかそうそうおらんやろがい!!💢

下手すると家族ごと教会のヒエラルキーの中でハブられちまう。罪人に罪を指摘したらかえって自分達が社会を乱すものとされて阻害されるってことだよ。この実態のどこが「家父長制的なものは含みません」だよ。バカも休み休み言えよ。と思うのだ。

ゲイを告白したバチカン高官は即日更迭なのに、実際に少年を手籠めにした、俗世の価値観でも性犯罪者な神父らには、この問題が告発されてから14年もの間お咎めの規定すらなしってどないやねんな?

しかし、この問題、他国の問題でもなければカトリックの問題だけでもない。

報告による1950年以降の日本での性被害には、おそらく日本聖公会で起きた被害は含まれていないだろう。

ワタシは悲しいよ。聖公会でもこの問題は上の方でこちょこちょ話し合われるだけであまりちゃんと受け止められてないけれど、かつて、京都教区でもそうした事件があった。

当該司祭は陪餐停止という事実上の破門になり、被害者家族はカトリックに転籍したと聞いた。今はどうなってるか知らないけれど、それでも被害者とその家族が信仰を失わなかったのだとしたらそれはすごいことなんだと思う。ワタシなら無理だわ。自信ない。

京都教区は大阪教区と合併し、大阪教区とする方向の議論がこの何年か進んでいた。表向きは人口減少に伴う、いうなれば市町村合併みたいなものを目的と掲げていたけれど、本当のところは恥ずかしい過去を教区の名前を抹消することでなかったことにしたいだけにワタシには見えた。

先般、その合併話が流れた。採決で反対が上回ったから。大阪教区側が拒否したと言っていいその採決をワタシは支持している。だって、覆い隠したって何も変わらないじゃないの。

罪の赦しを求めるならばその過去を消してはならないよ。それは新たなる歴史修正への道だし、何よりイエスの生き方に反する。共同体全体の過ちとして捉えることができない限り、同じような事件がまた起きるだけに思う。

在るものを無いと言ってはいけない理由はもう説明できたんじゃないかしら?

にんげんだものbyまきお

よく「キリスト教徒なのに」と言われることあるんですが、我々はただの人間なんでクリスチャンでも罪は犯すし、エロいし、ダメ人間だったりします。全員ではないにしろ。

ええ。ダメでいいんですよ。「そんなダメなとこも愛してるよ」って言ってくれる史上最強のイケメンが我が主イエスキリストだとワタシは信じているので無問題です。

でも人間が社会の一員として社会の中で生きていく上で、誰かに愛され必要とされてると信じられることで人生頑張れることもあるけれど、やっぱり自分勝手な欲求で他人を傷つけちゃうのは良くないよね。例えばヘイトとか、さっき書いたような性暴力とか。

ヤバげな政党の市議さん、前科一般の中身ってマジでそれ(ヘイトをベースにした暴力事件)だったわけだけど、中にはそういうクリスチャンもいます。「洗礼受けたら天国行けますよ」って考え方は、解釈を間違えれば特権的な考えに陥りやすいのです。でも誰だってそうなりうるよね。ワタシだってそうさ。

だから主の祈りってやつは

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。

と祈るのだろうと思います。人間が、自分が、道を外しやすいイキモノである事を思い出すために、繰り返し、繰り返し、世界中で祈られてきたんだろうと思う。

宮台の(あれを議論と呼べるかはともかく)議論の態度について。

繰り返して言いますが、ワタシは郡司真子も宮台真司も嫌いです。柴田英里がいいとも思いません。さほど興味もない人物ですが肌感覚的に言えばこの人も嫌いです。

この3人がどうなろうとワタシの人生には関係がないし、どうでもいいというのが本音です。またワタシはいわゆるツイフェミには批判的な態度をとっており、それが今回の記事で変わるということもないです。あかんもんはあかんねんもん。

とはいえ。

「糞フェミ」という言い方はよろしくないなぁ。ワタシ自身過去にツイキャス配信中に、リスナーさんから指摘されてやめた過去がありますので糾弾するつもりはないですよ。

でもまぁ客観的に見たらやっぱこの「糞フェミ」をTLを埋め尽くすほど連呼する宮台真司は「キモいな」と思いました。個人の感想です。政治的意図はないです。

自分に意見する奴が心底嫌いで許せなくてぶっ潰したくて堪らないんだろーなー。ということだけが荒れたTLからはヒシヒシと伝わってきます。

この点はおちょくったらすぐに打ち返さずには気が済まない安冨歩にも似てるなと感じています。あ!安冨大先生からもブロックされてます!菊池誠や津田大介からもブロックされております。

もちろん、ブロックは勲章だと思っています。

安冨氏については当たり前のことですが、360度回転したら元の位置に戻ることを知らないで絡んでるわけないんですが、その大きな釣り針に引っかかって嗤った直後にブロックしてきたので、釣られたことが相当お気に召さなかったようです。

キクマコからも津田からもほとんど同じ理由でブロックされてます。

つまり「カシコの俺をおちょくってきやがったこのバカ女なんなの?」ってことがブロックの原因です。

それまではワタシを男性だと思い込んで打ち返してくるんですがね。女とわかるとブロック逃走って感じですね。キクマコが馬に「あんたの彼女何なの?止めさせて!」とか言ってたのは笑ったなぁ。何年も前の話なので本人も覚えてないでしょうけれど。

でも安心してくださいね。郡司真子も似たような感じでしたから皆さん本当は仲良しのはずですよ〜。

というわけで、おそらくこれを見られた名指しされされた頭脳派の方々はこう思うことでしょう。

「何処の馬の骨ともわからんやつの高卒の嫁ごときが何を言ったところで何の価値もない」

うん。そうだと思う。だから君たちは頭デッカチたちの世界の中で、いつまでもくだらない言い争いを続ければいいと思う。

ワタシにはそこは関心ないかな。自分の関わる世界がより良くなることしか考えたくないので。

その意味ではそれぞれどうでもいい人たちだけど、それぞれいいなと思うところもあります。

一例ですが、宮台真司の「半径5m以外はみな風景」というのは実態を描写するにこれ以上ない名言だと思っていますし、安冨歩の子どもの未来への想いと、そこから生まれ出る経済論はワタシも共感するところが多いです。

でもみんなTwitterだとなんだかすっごい残念な人になっちゃうな。ワタシはこういう人たちの主張はリアルタイムラインで見るのではなく、本で読むのが一番だなと思います。

学者だからっていつも正しく本当のことを言ってるとは限らないです。それを修正する時間がないTwitterはやはり議論には向かないツールなんだろうな。というのがワタシの感想ですかね。

適当に付き合うのがいいですよ。本当。
Twitterなんて査読を経て皆様のお手元に届くわけじゃないんだから。

というわけで、おひらき!

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