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死について

どうも、二重螺旋と書いて
へりっくす。と読む、へりっくすです

タイトルが重いですが死について考える
死とは「命がなくなること」「寿命が尽きること」「生命反応がないこと」
僕は子供の頃から、葬式を何度も経験をしている
まぁ、珍しいことではないと思う

生まれてくれば死にに歩いているようなものであって
何を残すか、何をするべきなのか、コレと言った目標があるわけでもなく
刻一刻と死に近づいているわけである

父方の祖母が僕が6歳の頃に亡くなった
葬式を済ませ、棺を霊柩車に載せ、出棺の時にクラクションが鳴らさた
僕は近所の人達や、祖母の友人などが泣いている姿を見て
なぜ、泣いているのか意味がわからなかった

父親からは、生まれてきたら死に向かって歩いていると教わっていた
それが、早いか遅いかの問題であって、悲しいとは思わない
老化により生命維持が出来なくなり、死に至っただけだと思ってしまう

僕が15歳で、父親がなくなった時も、別段悲しいとも思わなかった
父親の生命維持が出来なくなり亡くなった。くらいの感覚だ
病室で、心電図がフラットラインを示し、医者が瞼を開き
瞳孔反射を確認して、死亡時刻を宣告した

父親の生命維持は、この瞬間に終わったんだな
コレでまた葬式なのか、火葬場に行くのは何回目だ?としか感じなかった

多分、僕には感情が欠如しているのだと思う
喜怒哀楽の中で理解できるのは、怒だけだと思っている
喜ばしいこと、怒ること、哀しいこと、楽しいこと
僕は喜哀楽が抜け落ちていると思う

もしくは、そう育てたれてきたからかもしれない
兄が事故で、救急病院に担ぎ込まれた。と母親から連絡があった時も
朝っぱら、面倒だな。死んでたら死んでたていいじゃん
生きてたら生きてたでいいじゃん。くらいの感覚だ
家族にもこんなことしか思わない

僕は聞きたい、なぜ親しい人が亡くなったら涙を流すのか
なぜ、哀しいと思うのか、理解が出来るように説明をしてもらいたい

僕が異常なのか、周りが異常なのか
僕には判断が出来ない

なんでこんな事を書いたかと言うと母親の肺に水が溜まっているようだ
近所の病院へ生き、検査をしてもらい
採血を何本も取られ、令和2年9月10日に入院するかしないかが決まるそうだ
僕としては心配をしたところで、病魔の進行は止まらないし
ド素人が口を出したところで、なんの役にも立ちやしない

心配をするだけ損だと思っている
餅は餅屋と言う言葉のように、病気は医者に任せていけばいい
そう考えると、心配もする必要性もないし
心配して心労を重ねる必要もない、いずれは人は死ぬ
それが早いか、遅いかの違いであって、悲しむ必要性はないと思う

昨日、母親に食事を作りに行ったが、口から出てくる言葉は
「なんでこうなっちゃったんだろう」を繰り返していた
繰り返されたところで、病状が良くなるわけでもなく
聞いているのも嫌になったから
「もう、同じこと言わなくていいからグチグチ言って良くなるならいつ迄もグチグチいってればいい」と伝えた

正直、聞いている方がイライラしてくる
鍋の中に適当に買ってきた食材を細かく刻んで冷や飯をぶっ込んで
お粥を作ってきた
話を聞くと、調子が悪くて薬だけ服用して食事はしていなかったそうだ
それじゃ、自分の首を真綿で締めているのと同じだ

入院になったらなってで構わないし
入院にならなかったらならなかったで構わない
すくなくとも、母親の残された時間は短くと感じている