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道ー福田花


 車社会のこの町で、“道を覚える力”というのは結構重要なポジションにいるんじゃないかと思う。

 私はこの力がある方だと思う。幼い頃に走った道路もなんとなく覚えている。それに方向感覚もある。たまにとんでもない間違い方をする時もあるけれど。


 ゆっくり走っているから、景色を覚えているというのは全くなかった。祖父は自動車学校の教習所の先生だったので努めて安全運転だったと思うが、父も母も割と飛ばし屋。運転に慣れてきた私もかなり飛ばす方だと気がついた。

 飛ばしつつ、景色が目に飛び込んでそれを留めている方なのか?と思う。

 座って景色を見ていても、情報の多さに圧倒される時がある。

 まず、どこにいても今見えているものが全て人の手で作られたり整備されたものしかないということに喰らう。そして、色が多すぎることにも喰らう。ものの種類が多すぎることにももちろん喰らう。それからどのくらいの間、それが同じ場所にいるのかとかこれからどうなっていくのかとかを考えてしまい、“時間”に喰らう。

 静止画であってもこれだけ頭の中を駆けずり回るのだから、車の中から見える景色となると速すぎて追いつけなくなる。

 そのため、おそらくそこにあるものの中でも頭や心が良くも悪くもピコーン!となったものが印象に残っているのだと思われる。そして記憶のどこかにとどまり、その近くを通ることで前後の記憶をほじり出し、おそらくここはあれがある!だからこの道!と思い出されている。はずだ。

 道の記憶は、どこに向かっていたかの記憶とも括り付けられている。こないだここを通った時はあんな場所に向かっていた、と思い出すのだが、あんまりその道を通るとぼんやりもしてくる。

 “思い出”が割と好きな方なので、だんだん薄まるのは寂しくもある。だからこそ、よくは通らない道を通って、“あの時”を思い出せると嬉しい。

 わたしの周りには方向音痴が結構多い。彼らは移動する際にどのような視点で移動しているのか非常に気になる。彼らの目には毎度新しい世界に見えているのだとしたら、それはそれで素敵なことだと思う。困ることも多いだろうけど。

 親友は、毎日通う中学校までの登下校の道を覚えるのに相当時間がかかったそうだ。私は一度行けば大体方向が掴めるのでわざと違う道を通ったりして、頭の中の地図を広げたりしてみたりもする。
 

 ただ、車で移動するときは知っている場所でもナビを使ってわざと違う道を行ってナビ頼みで遠回りして新しい道を行きつつ間違いなく場所に着けるようにもする。文明の力を使いつつ、新しい道を知っていく。

 街には街の道があり、田舎でさえも色が出る。栃木と茨城と群馬もまるで違うし、長野や福島は別世界だった。千葉も方々でまるで違う場所。道が楽しくて良かった。運転もより楽しめるから。

写真は日光に向かう高速道路

 

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