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本ー福田花


 今日もまた、お気に入りの喫茶店に休憩をしに来た。

 いかにも常連らしく「また来ちゃった。」と言い店に入る。「今日もありがとうね〜。」とお母さんに声をかけてもらっていつも座る1番奥の2人がけのテーブル席に向かう。
 途中、カウンターのいつもの花柄灰皿を勝手に取って「ホットで。」なんて言う。

 ここは今の働く場所から徒歩5分ほどの喫茶店。
 おしゃべりをしにも来るし、本が読みたい時にも来るし、物書きにもうってつけ。

 タバコをぷかぷかふかしながら、強めの暖房の風をあびて、まったり過ごすのだ。

 今年のはじめに買った山内マリコの『あたしたちよくやってる』は終盤に差し掛かった。

 私は遅読で飽き性。積読なんてものが家には山のようにある。途中まで読んで忘れられたものや、買っただけで満足して最初の1、2行しか読んでないものなどさまざま。
 一冊を読み終えてから次の本を読むものだと思い込んでいたこともあり、物書きが好きで詩を書いているにも関わらず、私が読み終えてきた本は数えられるほどだ。

 ある日、本をよく読む友人が2冊以上を同時に読み進めることがあるという話をして、そんなことが許されるのか!と心底驚いた。
 もちろん、読書にルールなんてないのでどんな読み方でも間違いなんてことはないはずだった。
 勝手に作った自分のルール(というかそういうもんだろう…というものさし)で私の本の世界は狭まっていたわけだ。

 そこで、2冊以上の本を読もうとしてみたこともあった。結果はご想像の通りでどちらも中途半端になったまま。読むはずだ!と思って目につく場所に置いたり、カバンにしばらく入れたままな状態が1ヶ月以上続き、やっと諦めがついて整理されていない本棚にしまわれる。
 そもそも1冊すら読み切ることが難しい人間が、調子に乗って2冊も読もうとするなんてあまりにも図々しかった。

 短編集というものは起承転結がみるみる進み、私のような人間にも易しいように思う(とはいえ『掃除婦のための手引き書』ルシアベルリン著ですら読み終えてない)。

 友人に紹介された山内マリコの本を今年の1冊目に選んだ。しがない田舎の本屋には著者の作品は1冊しかなく、求めていた『ここは退屈迎えに来て』もなかった。そこで手に取ったのが『あたしたちよくやってる』だった。

 結果的にこの選択が大正解だったように思う。あくせく働く合間の休憩時間で1ヶ月以内に読み終えた。そして鼻高々に「今年は1ヶ月に1冊読もう!」なんて思った。あまり期待はしないけど。

 女性に生まれた分、なんともいらない考えが頭を渦巻く時がある。性別に関係なくみんな思うことはあるだろうけれど。
 でも、山内が書く人間たちはその悩ましさを愛おしさに変えていくように思う(まだ1冊しか読んでないけど)。うんうんと同情したり、笑ったり。一緒になって怒ったり。簡単に言うことではないけど救われる部分がたくさんあった。私の言わんとすることを言葉にしてくれていた。

 友人が、学生時代の古い知り合いに再会して、「山内マリコが書く本の登場人物みたいだ」と言われてハッとしたと言っていたが(当時彼女は山内の本をよく読んでいて、それを話さずとも言われたので驚いたそう)、私も同じように彼女を思った。

 また、登場人物が自分のようだと感じるときもあった。田舎から上京して、中途半端にな時期に帰郷した。今はこれで良かったと思えるけれど、私の人生ってこんな感じなんか?と思うことがあったのだ。

 自分の不器用さや偏屈さを受け入れて愛おしく思うことが私の人生の目標だと言っても過言ではない。
 いつまで経っても隣の芝は青く、私の庭の柿は渋い。元気のない芝もそれはそれで一興、キキ(犬)がいるから結局おしっこで枯れてしまうし、渋柿は干せばいいのだ。
 ないものねだりの人生だなんてそんな悲しいものはない。

 「あたしたちよくやってる」なんてことが気軽に言い合える友人が1人でもいるといい。
 山内も書籍内で言っていたが、友人関係というものは環境の変化や簡単なことで呆気なく終わってしまう。それは当たり前のことであるのに、私はその変化に耐えられず友人たちを何度も思い返しては、戻らない時間に悲しい気持ちになったりした。
 Spice girlsのwannabeでも”friendship never ends”という歌詞があるが、信じたい反面、「嘘だ!」と曲に対し泣きながら怒ったこともある(大好きな曲だけど)。
 しかし、それすらもおそらく数年後には愛おしい記憶となり穏やかな私が当時の私を励ますことだろう。

 本を読み終えた達成感を久々に味わう。本の中身の面白さはもちろんだが、このやってやったぞ感も人に本を読ませる動機の一つになっているのではないか。
 最近は電子書籍が幅を利かせているが、私はてんでだめだった。「本」というものが好きだからだと思う。自分の手で触って、手に馴染んでいく様子だったり、ページを捲る動作や、それに伴い段々と残りが減っていくさま、栞代わりに入れるその時々の紙の切れ端までも私は好きだ。
 それならば、いくらでも本を読めるはずだろうと思うが、それとこれとは違った。
 が、今年こそは本を読みたい。私の世界が間違いなく広がるから。

 コーヒーを飲みながら、便利になりすぎている社会で、次に読む山内の本を「どこ」で買おう?と悩んでみる。

※サムネの画像は山内を紹介してくれた友人がくれた雑誌

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