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冬-vol.2 福田花

 あけましておめでとうございます。年が明けてからあっという間に1か月がたっていました。毎年、1月の過ぎゆく速さに体がついていけていない気がします。心がはやらないように、ゆったりと過ごしていきたいです。本年もヘリポートをよろしくお願いいたします。


花の巨木あつめ 前編


 ここ1年は、喫茶店や映画館に行くことと並んで、“巨木あつめ”と題して大きな木を見に出かけることを楽しみとしている。

 巨木との出会いは昨年の1月にさかのぼる。
 両親と初詣に日光東照宮に行った。お参りをすませ散策していると、紙垂(しで)と呼ばれる白い紙が飾られた大きな切り株を見つけた。生垣よりも外側で、何のことなく歩いていると気づかずに通りすぎてしまいそうな場所にあったが、私はその切り株に目を奪われてしまう。吸い込まれるように近づいていった。
 切り株ですら他の木よりもずっしりとして大きく感じる。この木はどれくらいの時間ここにいて、どれだけ背を伸ばし、腕を広げていただろうと思いを馳せた。どうして切られてしまったのか、どんな雨風がこの木の幹や枝を折ったのか想像した。
 切り株になってもなお、守られている姿を見て、木は神様だ、と思った。それからなんとなく今まで以上に木を気にして見るようになった。


 6月には足利を拠点に構えるCAR10というバンドのライブに誘われ、足利に行った。ライブの開演までに時間があったので友人ら2人と会場の周辺を散策することにした。当初は目ぼしいカフェに向かっていたのだが、その途中の自販機で適当な缶コーヒーを買ってしまい断念。代わりにどこかを見ようということで足利学校に行ったが開いておらず、隣の鑁阿寺(ばんなじ)へ行くことにした。
 境内に入ると一際目立つ大きな木があった。地面からどっしりと、太いというよりも、どでかい幹が生え、途中から二手に分かれていた。分かれた幹ですらあまりにも太い。どでかい幹は手を繋いで囲んでも3人じゃ到底抱くこともできず、どれだけ背が高いのかも体で表すことができない。首が痛くなるほど見上げても一番空に近い枝や葉は見えなかった。足元には土からはみ出た根っこが血管のように張り巡らされ、うっすら緑の苔が生えていた。ゾクっとした。紛れもなく生き物だった。枝を四方八方に伸ばし、溢れんばかりの新緑を輝かせ、“生きている”と感じさせられた。出会ってしまった!と思った。

 樹齢は550歳とのことだったが、木自身はどんな時間を感じながらここまで大きくなったとのかな、と考えた。想像もつかない年月をこの木はこの場所から一歩も動かずに過ごしている。どれだけの虫や動物たちがこの木と過ごして、どれだけの人がこの木を見つめたのか。550年経ってもなお、毎年緑の葉を数えきれないほどつけて、少しずつ枝を伸ばしている。雨や風を浴びて、太陽と月に照らされ、こんなにも大きく長く生き続けている。わたしはすっかり巨木のロマンのようなものに魅せられてしまった。

 その巨木の正体は大銀杏だった。幹はどっしりと穏やかなしわだらけのおじいさんのよう。枝をたどるほどにみずみずしさが増し、若い葉が明るい緑色に輝く。まるで赤ん坊が伸びをしているようだった。初夏に訪れたということもあり、幹や根の色の深さと緑の鮮やかさのコントラストにわくわくした。
 秋にはこの葉たちがだんだんと黄色くなって、大きな銀杏はまた違う表情を見せるのだろうと想像した。冬はどうなるのかな、とまた冬にここへ来たいと思った。

 春の目を覚ましたような木々も、初夏の新緑が輝く木々も、秋の思い思いにおしゃれするように紅葉する木々も好きだが、私は特に冬の静かな木々が好きだ。裸んぼうで辺りに溶け込む。虫や動物を温めているようにも思う。力強く立っていると、どの季節よりも感じられる。


 それからというもの、「栃木 巨木」と検索しては次はどこの大きな木を見ようかと考えていた。「栃木県 名木100選」というものや、「栃木県の巨木」といったサイトがあり、県内の巨木は意外と簡単に見つけられた。巨木好きは結構いるのかもしれない。

 そして待ちに待った冬の巨木に会いに行く。友人らを誘って。これまでも夏あたりに巨木を見に行った。どこも神社などの境内に立つ、よく守られた木たちだった。次は、今までとは違う、田んぼの真ん中にある木らしい。鑁阿寺の銀杏に会いに行きたいなと思いながらも、新しい巨木との出会いに心躍らせた。

後編に続きます。

p.s. CAR10のライブも素晴らしかったです。東京から栃木に帰ってきてこの曲に何度も救われています。

マチフェス/CAR10


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