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生きる屍:リビングデッド

少年は死んだのです。

死んだはずでした。ただし、物理的には生きていました。心は死を迎えても、体は生きているのです。

哲学者キルケゴールが言っていたコトと同じでした。

「人は絶望するたびに死を迎え、生まれ変わる」

そうして、生まれ変わるたびに飛躍的な成長を遂げるのです。少年は人生で何度か同じ目に遭います。そうやって死を迎えるたびに桁違いの成長を遂げるのでした。


この時に得た新たな能力は「心の麻痺」

心の一部分を完全に麻痺させることにより、言葉に対する感覚を鈍くさせるのです。

たとえば、「お前、才能ないよね」という言葉を人から浴びせかけられたとします。この手の悪意ある言葉は回避するのが常套手段。つまり、無視すればいいのです。

でも、少年には「回避」という発想がありませんでした。なので、真っ向から受け止めてしまうのです。受け止めた上でダメージを受けないためには?

そう!心を殺してしまえばいい!人としての心を失えば、この手の言葉は意味を失います。完全に無効化できるのです(ただし、少年は完全に人としての心を失ったわけではありません。自分の心のある部分が死を迎えることで、別の部分を残すことに成功しました)

これにより、「親の世話になっているのだから、親の命令には従いなさい」という言葉も効力を失いました。それは、生きている人間にのみ通用する言葉です。


しかし、それは新たなリスクを背負うことになります。

言葉に対する感覚が鈍くなるということは、「言葉の危険性を直感的に理解できなくなる」ということに他なりません。

「人は、自分が言われて傷つく言葉は、相手に対しても使わないもの」なのです。では、「言われて傷つかない言葉」は?当然、無意識の内に使ってしまうことになります。

たとえば、誰かが少年に対して言葉の攻撃をかけてきたとしましょう。心が麻痺しているので、その攻撃は通用しません。

それに対して、少年が同じ言葉を返したとしたら?「お前の方が才能ないよね」といった類の言葉を返してしまったとしたら?

相手の心は生きているので、当然、ズタズタに傷つきます。

それを何十回も何百回も繰り返したとしたら?少年の方はほとんど無傷のままですが、相手の心は砕け散ってしまうでしょう。

この瞬間、新たな能力を獲得すると同時に、潜在的に大きなリスクを負うことになったのです。


「この人生には、常に死がつきまとっている」

少年は、そう感じました。普通の人たちが太陽の光の降り注ぐ明るい世界で暮らしているのに対し、「自分の住んでいる世界はそうでない」と感じました。

魔界とか地獄とか死者の国に住んでいて、外に出る時も、何か人々の目の届かない「世界の裏側」のような場所を移動しているように思えたのです。

特に10代とか20代の前半では、そう思うことが多くありました。


少年は眠る前に思います。

「きっと、明日は目覚めないだろうな」と。

けれども、翌朝になれば目が覚めるのです。そうして、また地獄の日々を過ごすことになります。夜になれば、死を覚悟して再び眠りにつきます。

毎日毎日その繰り返し。死と再生を繰り返す日々。



「生きる屍:リビングデッド」

あるいは「死者の王:リッチ」とでも呼ぶべきでしょうか?

少年の心は死を迎えました。でも、肉体はまだ生きながらえていました。人としての心は失いながらも、まだ何者かとしては意識を持ち合わせているのです。

事体は、もはや取り返しのつかないところまで来ていました。おそらく、どのようなカウンセラーや治癒者(ヒーラー)が現れても、死んだ心を復活させることはできないでしょう。事実、完全に元に戻ることはありませんでした。

人として死を迎えたことにより、今後、少年は数奇な運命をたどることになります。2度とまっとうな人生を歩むことはできません。良くも悪くも!

そう!このコトは一見悲劇に思えます。でも、そうとばかりは言えません。

確かに「まっとうな普通の人間としての幸せ」は2度と享受できないかもしれませんが、それでも人並外れた特殊能力をいくつも身につけることができるようになります。それは、ある意味で「幸せな人生」とも言えるのではないでしょうか?

その特殊能力の多くは、「邪法」「外法」と呼ばれる、まともな人間が決して覚えてはならぬ危険な術の数々でしたが、いたしかたがありません。この地獄の世界から抜け出すにはそうするしかなかったのですから…

それに、「生きる屍」や「死者の王」にはふさわしい能力だと思いませんか?

noteの世界で輝いている才能ある人たちや一生懸命努力している人たちに再分配します。