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エッセイ 「ジョンビ」のいる第二世界

 最近、埼玉にある本屋さん「つまずく本屋ホォル」さんの「定期便」をとってみています。毎月一冊、店の方が選んだ本が小さな紹介文つきで届くしくみです。ベストセラーや話題の本ではなく、あまり知らない、ちょっと癖のある本が届くのかな、と思っています。何がくるかわからないドキドキもウリなのかな…(実際、とても楽しみでもあります)と思っていましたが、お店の方にひそかに言う分にはかまいませんよとおっしゃってもらいましたので、少し前に届いた本の読書感想文を書こうと思います。

「第二世界のカルトグラフィ」は、簡単に言うと、書評集のようなもので、書物を通して文化や芸術について考察した本です。「カルトグラフィ」は「地図を作る」という意味です。第二世界を地図を作る、第二世界ってなんだろうと思うと、もう冒頭から「第二世界は存在する」というタイトルで著者の前書きが始まります。

 いくつもの本を読んできた。行き交う人々と話してきた。最初は疑った。そんなもの、あるはずないじゃないか。夢に決まっている。作りごとを信じてどうするんだ、って。そんなわたしに同調してくれる人は多いし、常識的な人ならば、そんなもの端から信じない。わたしだってそうだ。そう言い切りたかった。

「第二世界のカルトグラフィ」中村隆之

 一瞬、なにか怪しいことのようですが、「第二世界」というのは要するに「ここではない世界」「私たちには隠された本当の世界」のことで、著者によるとそれは必ずしも遠くの世界をさしません。

 逆説的であるけれども、わたしたちは、第二世界を探しに遠くまで出かける必要はない。その<場所>は実はとても身近なところにある。書棚のなかに埋もれた本たちもまたそうした<場所>なのだ。

「第二世界のカルトグラフィ」中村隆之

 この、「もうひとつの世界」について、自分は思い当たる節があります。私はご覧の通りnoteで文章を書いていますが、お話を書く時に、実は「物語を作る」という感覚が希薄なのです。自分の過ごしている毎日、あるいは自分が考えていることをより考えているままに表そうとすると、なにか空想物語のようなものができる、というのが感覚的には近い。それって、ここではないもう一つの世界なのではないかと思います。私たちは人それぞれ、重層的な世界に住んでいるんです。重層的な世界の捉え方、といってもいい。

 「第二世界のカルトグラフィ」ではいくつか人種差別の歴史について論考がされていますが、その中にニューカレドニアのカナク族の植民地化の歴史に関するものがあります。

 しかし、かれらの生活は白人による植民地化によって変容していく。人間は樹木から生まれ(「カナク人はみな、自分の祖先が森のどの樹木の幹から出てきたか知っている」)、死者は生者とともにあり、祖先の肉からできたヤムイモを丁寧に扱うなど。人々は神話的な世界観のなかで生きてきた。そこに白人はカナクの世界観に存在しなかった観念を新たにもたらした。「身体」である。「身体」を認識することで、人間と樹を同一に捉えるような「融即」(レヴィ=ブリュル)の思考が変容し、カナク人における世界と自己との分割が、神話的世界から離脱する人格の個別化が始まったのだ。そうレーナルトは解釈する。

「第二世界のカルトグラフィ」中村隆之

 ここで語られる趣旨はニューカレドニアの独立をめぐる歴史と文化論ですが、ここの部分で西洋的な観念が、カナク人の世界観を『変えた』という話が紹介されています。世界は、そこに生きている人々の考え方によって『変わる』のです。

 「夢ばっかりみていないで、現実世界をみなさい」
 大人になってから言われると痛い一言です。けれど実はこの「現実世界」というのは一様ではない。私はそう思います。学生のときに心理学で錯視の専門の教授がおっしゃっていました。「単純に棒の長い短いですら、私たちは解釈のゆがみぬきに正確に認識することはできない」。みんな、一律の物質的世界を生きているようで、実は解釈の数だけ、無数に世界は存在すると思います。

 最近、「没有漫画没有人生」というエッセイ漫画を読みました。「エッセイ」とあるように、架空の漫画家峯月モチタロウ(著者は望月ミネタロウさんです)が生活の中で日々考えていることを描いた漫画です。この、モチタロウさんは随分正直な方で、なんだか好感がもてます。例えば自分のまだ一歳の息子が晩酌中に喃語で話かけてくるのにこう答えます。

 これは君があと19年飲めないお酒というものです。
 なぜ君はまだ飲めないのかというとシラフでも充分楽しいからです。
 こっちはカマボコというものです食べてみますか?

「没有漫画没有人生」望月ミネタロウ

 いい万年筆をもらった時にはこんなことを考えたりもします。

 僕は人に、
「お、なかなか洒落たペン挿してるじゃない。
 そういうので文章書くなんて格好良いじゃないの。」
と思われたい節があり、
『万年筆なんて持ってカッコつけてるな。』
とも思われそうなところを、
「ああ、良いでしょ。いただいたので使っているのです。ウフフフ。」
と言いたいというだいぶ軽薄な、そしてイヤラシイ心を持っている。

「没有漫画没有人生」望月ミネタロウ

 悪びれない正直さになんだか笑ってしまいます。

 モチタロウさんは息子さんを「ボウヤ」と呼びます。「ボウヤ」の怖いものはゾンビです。本人はまだ舌たらずで「ゾンビ」と言えず、「ジョンビ」と言ってしまいます。
 怖いなら忘れてしまえばいいのに、ボウヤはしょっちゅう「ジョンビ」について考えます。街の中や、排水溝の下からいつ「ジョンビ」がわいてこないかと不安で大騒ぎをするボウヤを見てモチタロウさんはこんなことを考えます。

 もちろんボウヤは「主観的世界」である空想と「客観的世界」である現実を明確に区別していないからなのだ。
だからこの買い物に向かう道のいたるところにも、またはトイレの中にもカーテンの裏や窓の外や机の下にも、本当にゾンビやおばけを感じているのかもしれない。
 そして僕らにはボウヤにどんな風に世界が見えているのかわからない。
(中略)
 だからきっとたぶん「ゾンビ」はいないけど「ジョンビ」は存在するね。あとトイレの中には恐ろしい赤いオバケが隠れているはずだ。

「没有漫画没有人生」望月ミネタロウ

 小さい頃、まわりにオバケや妖怪がいるような不思議な感覚は自分にも覚えがあります。モチタロウさんは理知的な人でそれを「主観的世界」「客観的世界」ときっちり分けているけれど、「第二世界のカルトグラフィ」で語られている「第二世界」というのは、このボウヤの「ジョンビ」のいる世界にごく近いものであると私は思います。つまり、今自分が客観的だと思っている世界の認識方法とは違う何かで捉えた「現実の」世界です。ボウヤの中では「ジョンビ」は実在する怖いもので、だからボウヤの世界に「ジョンビ」は実在して、でもそれは大人である私たちとは共有しきれない世界なんです。

 「大人」と、今ひとくくりにしてしまったけれど、時間や場所をかえると、大人たちの考えていることも、文化だったり歴史だったりが原因で大きく乖離が生まれます。つまり、大人ですらみんな違う世界を生きています。そして遠くに行かなくても、書物を通せば、私たちはその乖離をのぞくことができます。つまり「第二世界」に行くことができるわけです。すごくよく考えなくてはいけなかったりして、なかなか難しいけど。

 自分の書くお話も、思えば自分の中の現実を、どうにかして書き表したくてずっと書いているような気がします。なんでそんなことをしたいのか、わかりません。「第二世界のカルトグラフィ」では、脳卒中になって言語機能を著しく損なってしまった哲学者が自身のリハビリのために書いた『もはや書けなくなった男』の書評でこんなことを言っています。

 著者とその親密な友のあいだでやりとりされた言葉。だからこそここまで率直に書くことができた。何かに役立つこと、誰かのためになることから解放された、自分のための文章。ところが、一見して誰にも役に立たないそうした文章が他者の心にまで、ときに深い裂傷のように届くことがある。そのとき、その文章は、それを読んだ人の心の中で忘れ得ない言葉となるのではないだろうか。

「第二世界のカルトグラフィ」中村隆之

 どうして自分は文章を書くのだろう。そしてどうして他人の文章を読むのだろう。いつもそんなことばかり考えているけれど、「誰かに自分の世界を見せるため」「誰かの見ている世界をのぞくため」が一番近い回答なんだろうなと思います。でも、この「自分のための文章が(おそらくは自分のための文章だからこそ)人に深く届くことがある」というのはすごくわかる気がします。読み手として、そんな瞬間をたまに経験したことがあるからです。
 おそらくは、すごく正直にかかれているからなんでしょう。他人のためでない分、正直に「自分の世界のほんとう」を描くから、他人を自分の世界につれていくことがあるのだと思う。

 書けるだろうか、そんなものが。
 いつか、書いてみたい。
 いつもそう思っています。

エッセイ No.46

紹介した本

「第二世界のカルトグラフィ」中村隆之(著) 2022年 共和国

「没有漫画没有人生」望月ミネタロウ(著) 2023年 小学館


「つまずく本屋ホォル」さんは、こんな本屋さんです。


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